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三遊亭円歌、亡くなる [言葉*ことば*コトバ]

円歌が亡くなった。85だという。

古今亭志ん朝が亡くなったとき、「志ん朝くん、あとは任せてくれ」と言っていたのを思い出す。

2001年だというから、けっこう経つ。

どんどん、人は歳をとり、亡くなっていく。


円歌の高座『中沢家の人々』を、いちど聞いた。寄席ではなく、ホールで。

〈このあいだ嫌な客に会ったね。いちばんまん前にいた客。「待ってました、『山のあな』」・・・。忘れちゃったよバカバカしい〉とマクラを振っていた。

センテンスをみじかくとった伝法な語り口で、その合間に「ウソだよ!」などと、話を切る。たいへん勢いがあった。

笑いにつぐ笑いで、最後まで笑いっぱなしだった記憶がある。客の呼吸を心得ているというのであろう。息を吸うときに、口のなかに笑いのタネを投げ入れられるという風だった。


三遊亭円歌・中沢家の人々
https://www.youtube.com/watch?v=yqYhnevfC78


中沢家の人々・完全版

中沢家の人々・完全版




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「ちょっとだけ優勢」という状態(囲碁棋士 井山裕太著『勝ちきる頭脳』幻冬舎から) [スポーツなぞ]


勝ちきる頭脳

勝ちきる頭脳




上記書籍を読了した。

当方、碁石をつかってできるのは「五目並べ」くらいである。その自分に、はたして読めるだろうかと心配しつつ読み始めたが、たのしく読むことができた。

「方尺の盤上に人生あり」という言葉は将棋の世界について言うのだろうか。碁盤は、「方尺」よりおおきいように思う。

いずれにしろ、人生を考えるうえでの参考になった。それは、囲碁棋士のソレであり、人生を勝負にたとえてのソレである。

はじめての名人戦を闘った相手(張栩チョウ ウ)についての「ちょっとだけ優勢」の記述が、興味深い。以下、長いが引用してみる。

「形勢が少しばかり良くなっても、まったく楽をさせてくれません。少しでも緩めば徐々に差を詰められ、最後には抜き去られてしまう恐怖感が常にあり、逆にリードを奪われてしまったら、そのままがっちり逃げきられてしまうという焦燥感を抱いてしまいます。一局勝つのがこんなに大変な相手はいないと言わざるをえません。

このように張栩さんはすべての面において強いのですが、特に別格だと痛感させられたのが、優勢な碁をスムーズに勝ちきる力です。この点は間違いなく「自分にはない」と思わされました。

もし僕が優勢な立場だったら、「局面はまだまだ広く、この程度のリードで明確に最後まで勝ちきるのは楽ではない」と考えてしまいます。しかし、張栩さんはそうした局面から有無を言わさず、勝ちを掴んでしまうのです。特別に厳しい手を打ってくるわけでもなく、緩んでいるわけでもなく、勝利というものに向かってまっしぐらに最短で突き進んでいく感じなのです。

碁においては本来、この「ちょっとだけ優勢」という状態が最も難しいはずで、この点についてはこの後の章で詳しくお話ししようと思いますが、張栩さんに関してだけは、この「少しだけの優勢の状況が最も難しい」という言葉が当てはまりません。わずかな優位をそのままゴールまでキープしきってしまうのです。これが「勝ちきる」ということで、真似のできない芸当だと思わされました。

だから、少しでもリードを奪われたならキツいと思いながら対戦していると、前半からかなり精神的に追い込まれたようになります。また仮にこちらの形勢が良い状況であっても、「このリードを失ったら、もう挽回できない。絶対に優勢を維持しなければ」と考えてしまうので、こちらが優勢なのに追い込まれた気持ちになってしまうのでした。

リードを奪われたら「もう駄目だ」、互角であっても「優勢にならなければ」、優勢であっても「もし逆転されたら」--こんなふうに思っていて、良い結果が出るはずもありません。それは充分に承知しているわけで「そんなことを考えてはいけない。自分の着手だけに集中しなければ」と思って碁盤に臨んでいるのに、やっぱりいつの間にか思わされてしまっている。これが張栩さんの強さなのです。 p25,26

以上の部分を読みながら、思い出したことがあった。駒川改心流剣術の名人黒田泰治鉄心斎について、孫の黒田鉄山が記していること、である。そこでは、剣術の腕前を上・中・下に分けて、それぞれがどのような稽古をするか、上位の腕前の者が下位の者と稽古をするとどのように見えるかが示されている。

もっぱら思考をめぐらす囲碁の世界と身体をもちいた剣術の世界とを一緒くたにしようというのは、無理があって、まったくの見当違いかもしれないが、すこし考えてみたく思っている。実際のところどうだろうか・・・

(以下、黒田鉄山・甲野善紀著『武術談義(壮神社 昭和63年)』「改心流竹刀稽古の特色」から引用)

祖父の稽古のつけ方は祖父一代のものではなかろうかと思います。子供と稽古をした時、厳しい指導をしながらも木刀や竹刀自体は非常に柔らかく限りなく優しいものでした。だからこそ当時中学生くらいでも1、2級になっていた方達は大人の有段者ーー中、高段者ーーと稽古しても反対に子供扱いしてしまうような稽古をつけることが出来たのだと思います。

この剣術では上位の者が下位の者の受をとるのは半日でも一日でも立っていますが、その彼がさらに上の方に掛かっていく時はすぐに参ってしまいます。祖父も修行中は目録、免許と十人もやると、尾籠な話ですが便所に座ると立てなくなったそうです。ですから、冨山の道場の便所にはちょうど頭の高さに一尺ほどの竹の棒が荒縄で吊るしてあったそうです。

また、わずか十人とはいえ目録以上の方々と稽古をした後は両手の握力が萎えてしまい、食事もご飯をおにぎりにしてもらって済ませたそうです。竹刀が滑るほど軽く持っていてもそうなるのかと私が(祖父に)聞いたところ、持っていたのではもっとひどいことになるとのことでした。

さて、このようにして中の位の稽古となりますと、いかにも拍子よく、術技も細かく、見事に打ち、品位も高く見えるようになります。無駄太刀というものが無くなって参ります。そして上の位の稽古となりますと一見、強くもなく弱くも見えず、また角ばらず速くもなく遅くもなく、見事にも打っていないようでいて、決して悪くもなく静かで正しいものをいいます。相手にかかわらず、その方よりほんのわずか上のところで使うということが出来るようになります。

私も小さい頃、祖父の稽古と先輩の稽古とを見比べた時、祖父のほうが何となくモサモサとした印象で見劣りしたのを覚えております。隣で稽古をつけている先輩のほうは確かに中の位の稽古をされておりましたので、相手の竹刀はすべて受け流し、指にすらさわらせずーー当流では鍔を使用いたしませんーー、打てばポンポーンという独特の軽い音と共に大技も小技もみなきれいに入っておりました。ところがこの先輩が祖父に掛かりますと例の如くモサモサとした感じになってしまいます。が、確かにどこにも触らせてもいないようでした。p110,111

柳生石舟斎から、葛飾北斎「富士越龍図」、そして黒田泰治鉄心斎のこと 
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2013-01-01


武術談義

武術談義

  • 作者: 黒田 鉄山
  • 出版社/メーカー: 壮神社
  • 発売日: 2003/11
  • メディア: 単行本



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あくびの出るハナシ [言葉*ことば*コトバ]

きょうはどういうわけかあくびが出る。まわりの人たちも、あくびをしていておかしい。気温のせいか、気圧のせいか・・・。

あくびを教えてもらう必要はない。自然に出る。それを、わざわざお金を取って教えた時代があるらしい。もっとも、落語で聞いたのだから、あくまでもオハナシにちがいない。

『あくび指南』
https://www.youtube.com/watch?v=iBBznsQeBAo


昨日、そういえば落語の話で終わった。三遊亭円朝全集を紹介(イメージで)した。紹介しておきながら、当方は読んでいない。読みたいとは思っているのだが、読みそびれている。全集は、つい最近、岩波から新しく出たように思うのだが・・・。

落語というと、落とし話で、オチのある笑えるものをまずは思い浮かべるが、円朝が創作し、演じて著名なものは、『文七元結』、『塩原多助一代記』のような、オチのない物語性の高いものだった。

文七元結 古今亭志ん朝(約1時間20分)
https://www.youtube.com/watch?v=CC1k8ewG8Ys

落とし話を得意にしていた古今亭志ん生も、本来的には落とし話より人情噺を好んでいたという。三遊亭円楽(先代)が、『ラジオ名人寄席』で玉置宏さんを相手に話していたのを聞いた。また、セガレの志ん朝や住み込み弟子の志ん駒が、製本がばらばらになるほど円朝全集を読み込んでいた師匠のことを話すのも聞いた。

円朝のながい噺を演じる際に、志ん生がマクラに振っていたと思うのだが、(実演を聞いたわけでない。録音で)、複数回に分けてかける長い噺の「つづき」を聴きたいために、雨嵐のなかも、寄席に出向いて行く人が、なんでこんなにまでして・・と、うらめしく思うほどの名人・上手の話をしていた。そうした噺家になりたいとの願望も強くあってのことではなかろうか。

明治の言文一致運動推し進めるうえで、円朝の創作(速記本)はおおきな役割を果たしたが、噺家、演者としても名人・上手であったようである。

そして、その円朝には、師匠がいた。しかし、落語家ではない。

以下の本に出ている。

***********
(以下、引用)

「今度の桃太郎は活きている。この気持ちでやり抜ければきっと名人になれる。役者がその身を無くし、剣術使いが剣を無くし、講釈師が口を無くしなけりゃ、ほんとの名人にはなれぬものだ。おまえも今の気持ちを忘れないで、進むようにすれば、大成すること請け合いである」と(師匠は)諭した。

円朝はこうして生まれ変わったのであった。円朝の妙技に人が恍惚として身を忘れるようになったのも、彼が大悟徹底してからのことである。

円朝が無舌居士と名乗ったのも、こうした師匠との因縁話からで、この居士号は師匠が滴水さんと相談して、選んでやったのである。


勘三郎×山田洋二=文七元結
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2007-09-20

滴水のこと(水上勉著「骨壷の話」から)
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2014-02-20


おれの師匠―山岡鐵舟先生正伝

おれの師匠―山岡鐵舟先生正伝

  • 作者: 小倉鐵樹
  • 出版社/メーカー: 島津書房
  • 発売日: 2007/08
  • メディア: 単行本



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「書く」のは、「業(gou)」・・ [本・書評]

これといって書くことがない。

以前、河合隼雄さんが、新聞コラムの連載を担当して、書くことがないのでひねり出すのがたいへんだとか書いていたのを思いだす。

書くことがなければ書かなければいいだけの話だが、河合さんの場合、依頼主と読者の期待がかかっていたのだからタイヘンだ。

野坂昭如は、その点、たいへんなクセモノであったらしい。野坂担当編集者であった方の著書(『言葉はこうして生き残った』)で、そのことを知った。雑誌の連載を引き受けながら、カンヅメにされた場所から逃亡する。あと2時間たったら来てくれ、インターホンを押してくれれば、かならず原稿を渡すから・・と言うので、そのとおり出かけると、インターホンが引きちぎられ、アカとアオの電線が出ているだけ・・。月刊雑誌にアナを開け、この責任は、野坂によるものであります、というような一文だけ(白紙部分に)記して、誤魔化したこともあるという。それでも、憎めない人物であったように書いてあった。(以上、当方の記憶によるもので、正確なところは、現物にあたっていただきたい)。

言葉はこうして生き残った

言葉はこうして生き残った

  • 作者: 河野通和
  • 出版社/メーカー: ミシマ社
  • 発売日: 2017/01/28
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



松本清張も吉川英治も、作家は忍耐勝負で、ツクエの前にどれだけシンボウできるか・・と言ったというが、その点、編集者にカンヅメにされ、ツクエの前から逃げられないようにされているというのは、プロ作家ならではの冥利でもあろう。そのようにして、作家としての実り、果実を得られるのなら、それはそれでけっこうなことではないか。

テネシー・ウィリアムズ回想録 (1978年)

テネシー・ウィリアムズ回想録 (1978年)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 白水社
  • 発売日: 1978/09
  • メディア: -


ここのところ、風呂に入っては、テネシー・ウィリアムズの自伝を読んできた。いちばん落ち着いた読書時間に、ある意味、最もクダラナイ本を読んだといっていい。ホモセクシュアル作家の「ウィタ・セクスアリス」であり、アルコールと薬づけの日々を記した本だ。その合間に、創作のこと、上演・再演した劇のこと、俳優たちのこと、精神を病んでロボトミー手術を受けた姉(ローズ)のことなど記されていく。現在と過去が交錯する。

そもそもは、著名劇作家の日常とその交友から、彼の生きた時代のアメリカを知ることができようとの思い、またその序文から作家の「業」をしることができようと思って、読みはじめた。

F ・ ラブレー と テネシー・ウィリアムズの共通点
http://kankyodou.blog.so-net.ne.jp/2015-11-19

結局、読了して得た一番のものは、何かというと、人間の「業」。テン(テネシー・ウィリアムズの愛称)の表現欲という個人的な「業」であり、人の目(評価)にさらされることに過敏で、精神の平衡を欠いてしまうたいへん繊細でプライドの高い人間性、そして孤独・・・といった人間としての「業」。

そうした「業」を告白したクダラナイ本ではあるのだが、とうとう最後まで読みきってしまった。つまり、作品としてたいへん巧みに構成されているということなのだろう。ひどく惨めな最期が待っている予感が常につきまといつつ、緩急をつけながら終わりまで進んでいく。最後は姉への愛情で終わっているというのが、なんだか救いであった。

原著は、三島由紀夫の死んだ1975年発行。テン「来日」の際、三島から酒を控えるようやさしい気遣いを示されたことやその死についての記述もある。翻訳は1978年9月。

その後、1983年に「ボトル・キャップを喉に詰まらせ窒息死」と(ウィキペディアに)ある。その結末は、全然おかしくない。当然の帰結にさえ思える。たいへん実り多い作家ではあったようだが、実生活は幸福にはほど遠いものだった。

クダラナイを連発してきたが、ただクダラナイだけなら読みすすめることなどできない。それができたのは、『回想録』が、結果として考慮に値する対象であったことを意味するのだろう。「人間の業の肯定だ」といわれる落語を、立派な文学と思っている当方から見て、人間の業に言及する「落語」同様に思えたのかもしれない。決して、わらえる内容ではなかったが・・・

**********

映画「黒い雨」~「トルーマン」~「オバマ」「暴力的過激主義対策(CVE)サミット」10の問題点 
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2015-02-20


『三遊亭円朝全集・42作品⇒1冊』

『三遊亭円朝全集・42作品⇒1冊』

  • 出版社/メーカー: 三遊亭円朝全集・出版委員会
  • 発売日: 2015/01/04
  • メディア: Kindle版



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お天道様が見てる

きょうはよく晴れている。風もなく、いい日和だ。

今朝の『毎日新聞』に、老人福祉施設関連団体の運営主体の不正について記されていた。会員費を不正流用し、「会議費」名目で役員たちが〈不適正「飲食」 銀座で「会議」3300万円〉していた、という。

どこもかしこも、そんな話ばかりである。社会の上層部がソレだから、シモジモまで、ソレが当たり前になってしまうのかもしれない。

安倍のミクスの利益は、自民へ“還流”
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2014-11-29


「お天道様が見ている」という言葉がある。自分を律する基準にしている人もいる。悪事を行なおうとする人を諌めるときに使うひともいる。いずれにしろ、悪を行うべきでない理由として使う。

今朝、そんなことを考えていたら、思わぬ歌のフレーズが思いにのぼった。「月も知ってるオイラの意気地」というやつである。村田英雄の「王将」の歌詞。西條八十の作詞である。こちらは、お天道様ならぬ、お月様である。世を照らしだす明るさにおいて、太陽に劣るお月様のもとでも、自分の意に反することは行わない。夜陰に乗じて悪を行わない。それが、習い性になっている。生き方になっている。それを、ほかでもないお月様も知ってくれているという含意があるのだろう。いい歌詞だな、と思う。

王将 村田英雄
https://www.youtube.com/watch?v=u9IpzvOOuI0


『聖書』のなかで、ダビデといえば、良い王様の代表選手だ。ところが、たいへん悪いことを行ったことがある。戦時、王宮にいて、戦争に出向いているウリヤの妻:バテシバと不倫を働く。その妊娠を知ると、自分の元に、ウリヤを呼び寄せ、妻と寝るように仕向ける。それで、子どもが生まれるなら、自分の不倫を隠せると思ってのことだ。ところが、ウリヤは、仲間が戦線にいるのに、どうして自分が妻と寝ることなどできるでしょうかと言って、ダビデの思惑どおり行動しない。こまったダビデは、(正直に自分の非を認め、告白すればいいと思うのだが、そうはせずに)、司令官宛ての手紙をウリヤに持たせて戦線に送りだす。その内容は、この者を戦闘の最前線に送り出して、闘いで死ぬようにせよというものだった。それに、司令官はしたがう。ウリヤは戦死する。その後、そのバテシバをダビデは自分の妻とする。

これは、もちろん完全犯罪にはならなかった。他でもない、神がご存知だった。太陽の光の届かないところで、「ひそかに」行われたことも神の目に隠されることはなかった。神は、預言者を通して次のようにダビデに言われた。

「見よ,わたしはあなたに対して,あなたの家から災いを起こそうとしている。わたしはあなたの妻たちをあなたの目の前で取り上げ,あなたの仲間の者に与えよう。その人は必ずこの太陽の下で公然とあなたの妻たちと寝るようになる。 あなたはひそかにしたが,わたしは全イスラエルの前,太陽の前でこの事を行なうであろう」(サムエル第2 12:11、12)

神からの叱責を受けて、ダビデは自分の非を認め、悔いる。その悔い改めは神に認められはしたものの、その後、予告されたとおり自分の蒔いたものを刈り取っていくことになる。


中国古典には、「四知」という言葉がある。天知る、地知る、我知る、人知る。それゆえ四・知である。「誰も知らないと思っていても、悪事や不正は必ず発覚するものだということ」と下記サイトにある。
http://kotowaza-allguide.com/si/shichi.html

発覚する・しない以前に、良心に反することを退け、お天道様のもと、大手を振って、いつも歩きたい。

そして、お月様の下でも・・・

もちろん、神のみ前で・・・


絵のない絵本 (新潮文庫)

絵のない絵本 (新潮文庫)

  • 作者: アンデルセン
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1952/08/19
  • メディア: 文庫



旧新約聖書―文語訳

旧新約聖書―文語訳

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 日本聖書協会
  • 発売日: 1996/12
  • メディア: 単行本


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「文学界」5月号、平凡社「こころ」を読む(図書館にて)


文學界2017年5月号

文學界2017年5月号




#文学界新人賞作品「影裏」をみる。書き出しから、ミズナラの倒木にふかい関心を寄せる友人についての記述まで、その後、飛ばして、その友人の死に対する父親の述懐を記した最後を読む。そして、受賞作品選評に目をざっと通す。著者は、岩手県在住という。

その中で、おやっと思った言葉があった。「全裸合同で懇親会」。最近の会社は、親睦のためにたいへんな会合をもうけるものだと思ったが・・・、老眼のなせるワザである。「全課合同で懇親会」の「課」と「裸」を見間違えたのである。ちなみに、いまだ、当方は「裸眼」で生活している。免許も・・。

#御厨貴先生の連載『御厨流政治道場』、その第1回を読む。『五回目の最終講義』と題されているので、今回が連載最終回かと思ったが、第1回目である。東大を卒業して後、奉職した大学の放浪記である。なぜ、職場を転じたかに注目したい。奉職したのは、都立大、政策研究大学院大学、東大先端科学技術センター、放送大学、青山学院大学国際政治経済学部、東大先端研究客員教授(再任)と、「転石苔生さず」を諺どおりに実行し、それでも、しっかり「苔」を生してきたという自画自賛とも思える内容であったが、オーラル・ヒストリーを日本に根づかすための先生の苦労をしのぶことのできる内容で、「政治寄席」なる講座を開く先生ならではの語り口が文章に反映されていて面白かった。ふつう、東大から都立大に移って定年退職までずっと居るのがフツウ(型)なのだが、先生は破格の歩みをした。「私のような伸縮自在、融通無碍の政治学は、生涯一大学の型では花開かなかっただろう。大学放浪の中でこそ、政治学の領分を次々と開拓し、果実を収穫しえたのだと今は思っている」と結ばれていた。(やっぱり、「自我自賛」かなあ)。次回以降も目をとおしてみたい。

**********


こころ Vol.36

こころ Vol.36

  • 作者: 嵐山光三郎、磯田道史ほか
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2017/04/12
  • メディア: 単行本



平凡社「こころ」は、創刊時、図書館に定期購入するよう依頼し、リクエストが叶った雑誌。ところが、36号にいたるまで、読むことなく過ごしてきた。本日、目をとおして、たいへん損をした気分になった。

嵐山光三郎+磯田道史との対談に目をとおした。「西行から芭蕉へーその① 西行とその時代」。目次は

“才能の窓”があく院政期 / 北面の武士の実態 / 鎮魂の精神 / 心を空に / 奥州行きは諜報活動 / 旅と西行と能 / 保元の乱と平治の乱 / 男と男の絆 / 処刑の嵐がもたらしたもの / 源義経と真田幸村 / 平家の優しさと文明度 / “みだれ黒髪”の衝撃 / 崇徳の呪いと平家の滅亡 / 「願はくは」の謎 / 美と死が同居した時代


たいへん長い対談である。「不良中年」を売りものにしていた光三郎さんの実力を見る思いをした。「磯田先生を相手に、ここまで話せるとは・・」(など言うものなら「失礼千万」と叱責されそうであるが)。お二人とも資(史)料を見ることなく、対話しているのだろうか。たいしたものである。

ざっと一読して(閉館の時間が迫って、一読しかできなかったのである)、“当方なりに”思ったのは、西行という人は、たいへんなパフォーマーであったろうということだ。政治のあり様・動きを見定め、そこから身を退いた。政争・武力闘争に明け暮れる日々を迎えるまえの出家は、西行のいのちを守るものとなった。友人・知人はみな死んでいった。「西行は、生涯を通じてとんでもないドラマを真ん中で見ちゃったんですね(嵐山・談)」という具合になる。そうした中で、歌を詠む。涙をながす。

しかし、実のところ、西行のうたや涙はパフォーマンスにすぎない。ところが、その単なるパフォーマンスが、その卓越した技術ゆえに受け入れられてしまう。また、自分(のうた)が、受容されるものとなる人間関係を、それ以前に築いておくことも西行にはできた。それらは、西行が政治的に目先のきくパフォーマーであったことを示すものといえる。時の(最高)権力者とわたりあって、高野山(だったかな・・)の税の免除を願い出て、叶えられもしている。たいへんな政治力である。対談では「フィクサー」という言葉も用いられていた。

たいへん驚いたのだが、自分の「死ぬ日」を予告し、それに合わせて自殺した話もでていた。水銀自殺を図ったらしい。そうしたことで、勅撰和歌集にのちのち歌が採用されることになったという。

政治的に目先のきく稀代のパフォーマーが西行の実像か・・・。歌詠みは、情があるだけでは、つとまらない。知(技術)の裏づけがなければならない。そして、それを顕してはならない。感受されてはならない・・など思った。


当該対談中、特に印象に残り、魅力的に思えた人物は、頼朝をして「日本一の大天狗」と言わしめた後白河法皇である。「愚管抄」によると「天皇の器ではない」暗愚な人物とされているようだが、実際はそうではなかったようだ。そう思わせたのも、法皇の大人物たる所以なのかもしれない。「梁塵秘抄」の編者は、人間味を了解する「大天狗」、大政治家であったようだ。

次回は、「芭蕉」の話か。楽しみだ。

**以下、対談から**

磯田:ひょっとすると、美と汚ない死が最も同居しているのは日本史上では、この院政期の終わりごろだったかもしれない。そこに巨人がたくさん出て、ぶつかり合って、きれいなことも栄誉栄華も醜悪なことも、全部やるもんですから、すさまじいことになる。人間心理がこれほど掻き乱され、苦しめられ、また歓喜もする時代はほかにない。人生そのものが精神と肉体の過酷試験で、そこから文学が迸り出てきた時代なんです。だから、この匂いを、ここから落ちてくる院政期の文学のしずくを匂わない日本人は、すごく損していると思う。三島由紀夫あたりはよくわかっていて、この時代の和歌をよく読んでました。

嵐山:三島由紀夫は院政期の文学を意識していましたね。

磯田:明らかにそうです。昭和に美がないから院政期と同じようなことをしようとしてみたのかもしれません。死と文学を結びつけることを・・・。

************

事の全体がふつう以上によく見えて、その全体の中に、自分を輝く一点のピースとして嵌め込んだという点で、西行とミシマは同胞に思える。


浜松中納言物語 (新編日本古典文学全集)

浜松中納言物語 (新編日本古典文学全集)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2001/03
  • メディア: 単行本



春の雪―豊饒の海・第一巻 (新潮文庫)

春の雪―豊饒の海・第一巻 (新潮文庫)

  • 作者: 三島 由紀夫
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2002/10
  • メディア: ペーパーバック



五衰の人 三島由紀夫私記 (文春学藝ライブラリー)

五衰の人 三島由紀夫私記 (文春学藝ライブラリー)

  • 作者: 徳岡 孝夫
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2015/10/20
  • メディア: 文庫



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4・19-5・10 [通読・積読]





1923年に建国したトルコ共和国。革命を主導し、建国の父となったムスタファ・ケマルは、共和主義・民族主義・人民主義・国家資本主義・世俗主義・革命主義という6原則を掲げ国家運営の舵を取った。それから約1世紀、数度のクーデタ、オザル首相の政治改革を経たトルコでは、エルドアンが政敵を排除しながら躍進を続けている。ケマルが掲げた6原則を通して、トルコの百年の足跡を振り返る。

***********


コロンブスの不平等交換 作物・奴隷・疫病の世界史 (角川選書)

コロンブスの不平等交換 作物・奴隷・疫病の世界史 (角川選書)

  • 作者: 山本 紀夫
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2017/01/25
  • メディア: 単行本


15世紀末にコロンブスが大西洋を横断して以来、ヨーロッパからはサトウキビや小麦・牛・馬などがアメリカ大陸に持ち込まれ、アメリカ大陸からはトウモロコシジャガイモ・トウガラシなどがヨーロッパに運び込まれた。世界のグローバル化が始まり、食文化にも多大なる影響を与えた。新旧両大陸による交流は「コロンブスの交換」と呼ばれるが、はたして正しい名称なのだろうか。コロンブスの功罪を作物・家畜・疫病の観点から掘り下げる。
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渡部昇一さんが亡くなった(その魂は・・・) [スピリチュアルな話題]

心不全だという。

杉並の自宅で倒れたという話である。

自宅とは、ご自分の書斎を指しているのだろうか。そうであれば、本望であろう。15万冊の本に囲まれて倒れたなら、いかにも渡部先生らしい。

書斎の画像
https://www.google.co.jp/search?q=%E6%B8%A1%E9%83%A8%E6%98%87%E4%B8%80+%E6%9B%B8%E6%96%8E&hl=ja&rlz=1T4LEND_ja___JP513&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0ahUKEwix0dKEsq3TAhUKWLwKHfurBcIQsAQINg&biw=1061&bih=536#spf=1


渡部昇一 青春の読書

渡部昇一 青春の読書

  • 作者: 渡部昇一
  • 出版社/メーカー: ワック
  • 発売日: 2015/05/22
  • メディア: 単行本



「保守派の評論家」「保守の論客」とされているが、正々堂々、自論を展開してこられたのではなかろうか。

当方は、先生のよい読者ではない。にわか読者である。上記書籍をとおして、たいへんな読書家であることを知り、近しく感じるようになった。

目次 1 『 渡部昇一 青春の読書 』1~3章  WAC刊
http://kankyodou.blog.so-net.ne.jp/2015-12-17

目次 2 『 渡部昇一 青春の読書 』 4~5章  WAC刊
http://kankyodou.blog.so-net.ne.jp/2015-12-18

先生は、山形の鶴岡の出身で、講談社の庶民的文化の影響を受けて育ち、のちに上智大学に入り、カトリックの教えを受け入れ、洗礼を受けた。つまり、カトリック教徒・信者である。

上記書籍をとおして当方は、カトリックとはこういう考え方をするのだという気付きを与えられもした。

当方未読であるが、アマゾンの著作リストをみると、先生はスピリチュアルな発言もなさっている。「変」に思われることを懼れて、そのような話題を人は避ける傾向があるが、避けることなく持論を展開し、死者の霊魂について言及している。

カトリックでは、煉獄と呼ばれる場所・状態から、死者の霊魂が天国に行くことができるよう信者に祈るようすすめているという。死ねば肉は朽ち果て、骨となって、ついには土壌の一部となり、あとは何もなくなる・・という考えではなく、死者の体とは別に霊魂と呼ばれるモノがあって、死後も霊魂として生き続けるという考え方を、カトリックは宗派として保持してきた。

しかし、『聖書』そのものは、そのように教えてはいない。実際に調べてみれば分かることであるのに、たいへん知的レベルの高い方たちが、その教義を信じ、カトリック信者となっているという事実がある。おもしろいことである。

その根拠については、以前、当該ブログに記した。ご覧いただければ、幸いである。

聖書は「霊魂不滅」を否定している
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2006-05-13
聖書は「霊魂不滅」を否定しているーその2-
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2006-05-14
聖書は霊魂不滅を否定している-その3-
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2006-08-09


これだけ記して終わりにしてしまうと、死後の希望は何もないかの印象を与えてしまうが、実のところ、希望はある。

熱心なクリスチャンであり、殉教の死を遂げたと考えられている使徒パウロの言葉に次のようなものがある。

「そしてわたしは神に対して希望を持っております……義者と不義者との “復活” があるということです」(使徒 24:15)

渡部先生も、神の定めの時に、“復活” なさるにちがいない。


人は老いて死に、肉体は亡びても、魂は存在するのか?

人は老いて死に、肉体は亡びても、魂は存在するのか?

  • 作者: 渡部 昇一
  • 出版社/メーカー: 海竜社
  • 発売日: 2012/03
  • メディア: 単行本



スピリチュアル講話 -魂は在るか- [DVD]

スピリチュアル講話 -魂は在るか- [DVD]

  • 出版社/メーカー: (株)T.E.G.
  • メディア: DVD


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ブログ・タイトルを「当方見聞録」に変更

ブログ・タイトルを「当方見聞録」とする。もちろん、マルコ・ポーロの「東方見聞録」がアタマにあってのことだ。要するに、駄洒落である。


マルコ・ポーロ―『東方見聞録』を読み解く (世界史リブレット人)

マルコ・ポーロ―『東方見聞録』を読み解く (世界史リブレット人)

  • 作者: 海老澤 哲雄
  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2015/12
  • メディア: 単行本


ブログを更新するうち、いつのまにか、自分を「当方」と称するようになった。それで、「当方」の見聞したところを書いていこうというわけである。

さりとて、何を「見聞」しているかというと、ほんとうに情けないほどせまい範囲をしか生きていない。居住する地域のなかを動き回り、せいぜい図書館に行き、本を借りて読み、ラジオを聞き、新聞を読み、ネット空間をおよぐ程度の生活をしかしていない。だから、見聞することは、限られている。そして、基本的にプライベートなことは書きたくない。

つまり、当該ブログで、見聞し・報告される内容は「知れたもの」である。「見聞」の価値は、事実を見たとおり聞いたとおりに報告することにあるのだろうが、「知れたもの」の報告など読んでもオモシロくないにちがいない。マルコ・ポーロが未知の領域に踏み込んで報告したのとはちがう。未知の領域の報告であれば、のちのち「知れたもの」となるアリキタリのことがらでも、新鮮に受け入れられるのだろうが・・・。

仮に、「当方見聞録」に醍醐味があるとするなら、見聞したことが、「当方」のなかで、どう受け留められ、受容されていく(る)かということになろう。そこには、『聖書』を40年ちかく、毎日のように読み、それがそのとおりかどうかと調べてきたフィルターが否応なくかかっていることと思う。また、ユングをはじめとする心理学の影響や、読んだものの忘れてしまっている雑多な読書の影響もあることだろう。そうしたなかで、自ずと現れてくるのが「当方」の個性であり、読んでくださる方は、結局のところ当方の「個性」に接することになるのかもしれない。そこで、まさに「環虚洞」だと感じてもらえたなら幸甚である。

「閑居堂」あらため「閑巨堂」あらため「環巨洞」あらため「環虚洞」
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2015-10-26


全知全能でない人間の見聞するところは、所詮、全体のうちのほんの一部である。それゆえ、そこから発せられる意見・等は、どんなにまっとうに見えても、偏見に過ぎない。偏見という言葉に含まれる否定的な感情を考慮するなら、誠実な偏見ということもできる。それゆえにまた、せめてどこまでも、誠実さだけは保ちたいと思う。

「群盲象をなでる」の言葉があるが、当該ブログに記されることも、それら盲人のひとりのたわごとにすぎない。それでも、たわごとには、たわごとなりの価値があると思いたい。


旧新約聖書―文語訳

旧新約聖書―文語訳

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 日本聖書協会
  • 発売日: 1996/12
  • メディア: 単行本



ユング心理学入門

ユング心理学入門

  • 作者: 河合 隼雄
  • 出版社/メーカー: 培風館
  • 発売日: 1967/10
  • メディア: 単行本



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バイクで転倒して、2か月 [健康関連]

2月半ば、雪道で転倒して後、ずっと医者通いをしている。

ハンドルにそけい部を打つようにして前方に転がったが、たいへんな厚着をして、しかもシャツ、下着類をアウター・パンツの中にたくし入れていたから、全部で10枚近い衣服に守られ、内出血もしていなかった。皮膚の変色もない。腫れてもいない。それでも、これまで皮膚を強打した時のことを考えると、青くはならないものの、うす茶色になったことがあるので、同様の状態になっていただろうと思う。

それから医師の指示にしたがい、ロブ錠(60mg)を毎食後に服薬し、インテナーズパップという湿布を貼り、週に3回マイクロ温熱治療をしてきた。

ところが、ここにきて、胃に負担がきて、薬を換えた。セレコックス(100㎎)錠を朝・夕食後に飲むことになった。他に、胃のためにとレバミピド(100㎎)錠を併せて服薬することを勧められた。ところが、全然効かない。ロブ錠では、痛みをまったく感じなくなって、どうしたのだろうと不審に思うほどの時があったが、セレコックス錠では、そのようにならない。

それで、その旨、医師に伝えて、ロブ錠に戻してもらった。今度は胃薬として、レバミピドだけでなく、さらにサイトテック錠が処方された。ところが、一度傷めた胃には、負担であったようで、その旨医師に伝えると、今度は「胃にこない薬」ということで、リリカカプセル(50㎎)が処方された。朝・夕食後に服薬するのである。

転倒後、痛む場所としては、直接打ったそけい部よりも、左股関節付近や左臀部で、坐骨神経痛様の痛みがつづいている。マイクロを当てるのも左臀部である。

ところが、リリカカプセルを服薬したところ、眠気、のどの違和感、目のかすみ、口の渇き、だるさ、意識のぼーっとなる感じが出た。調べると、副作用としてあげられている症状である。それで、2日ほど飲んだが中止した。

そして、今日なのだが、驚いたことに、これまでずっと痛みを感じてきた左臀部よりも、左そけい部が痛むようになり、そして、これまでほとんどなかった右肩甲骨あたりに痛みが生じ、首を後ろに傾けるとき、特に痛む。

医師は、そのような病名を言わないが、ネットで調べたかぎりでは、そけい部から大腿部外側にかけての痛みは、「大腿外側皮神経痛」のようである。それと、坐骨神経痛とを併発しているのが現状のようである。

【足が痛い.com】大腿外側皮神経痛 
http://asigaitai.com/gaisokuhi.shtml


転倒の際、実際にどう転んだか分からない。だから、打ったり捻ったりして痛みを発症するところはたくさんあるのだろう。すぐに医師にみてもらい、服薬したので、薬のために、痛みを感じずにきた部分もおおくあるのだろう。それが、服薬を中止したために、そけい部や背中の痛みとしてでているように思う。

もぐら叩きゲームで、あちらの穴からもこちらの穴からも、モグラがでてくるような状態で、こうなってくると、自分の体が、自分のものでないように思える。

自分のもののようであって自分のものでないカラダ
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2007-02-14



明暗 (新潮文庫)

明暗 (新潮文庫)




痛覚のふしぎ 脳で感知する痛みのメカニズム (ブルーバックス)

痛覚のふしぎ 脳で感知する痛みのメカニズム (ブルーバックス)

  • 作者: 伊藤 誠二
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2017/03/15
  • メディア: 新書



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