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須賀敦子と宮沢賢治にまつわる話を聞く [スピリチュアルな話題]

雨のなか、東京へ出向く。とうとう一日降り続く。

行きがけ、須賀敦子と宮沢賢治にまつわる話を聞く。NHKラジオ第2で放送していた。

詩句の説明だけならいいが、解釈を加えられると、なんとなくオモシロくない。筋のとおった解釈に思えはしても、どこかで「ソレだけではナイ」という思いが同時に起こる。

自分が一番よく詩人たちを理解しているかのような気がしているからだろう。

しかし、それは錯覚にちがいない。


話を聞きつつ、そういう錯覚に多くを巻きこむのが、真の詩人かも・・など思った。


宮沢賢治全集10冊セット

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須賀敦子全集 全8巻(河出文庫)セット

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  • 作者: 須賀敦子全集
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2007/12/29
  • メディア: 文庫


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森友問題、安倍首相の“監督”責任が問われる [政治・雑感なぞ]

話がまわりくどくなるが、お許しいただきたい。

むかしグロリアインターナショナルという会社の百科事典があった。その表示はなかったように思うが、実質上は『アメリカーナ百科事典』であったろうと思う。英文である。

叔父の友人がアメリカ留学の費用の足しにしたいというので、人助けと思って3万円で親が購入したと言っていた。のちのち当方に読ませるつもりであったらしい。小学生の頃だから、当然ながら読めない。ぱらぱらめくって、写真を見る程度である。

それでも、驚いたことがあった。大統領の項目をみると、必ずある特徴があった。なにかというと、大統領本人だけでなく、夫人の写真も掲載されていたことだ。それも、該当項目の幾ページもあるなかに、夫人の写真が出ている、というのではなく、「リンカーン」の項目を見るなら、その冒頭に、大統領と夫人が二人並んで、掲載されている。二人で一緒にではなく、それぞれが同じ大きさの楕円の枠に入れられている。正面を向いた上半身が、カメオのブローチのような枠に入って、横にふたつ並んでいた。それは他の大統領の項目を見ても、同じだった。

アメリカとはこういうものなんだ・・と、へんに納得した覚えがある。

ずっと後になって、聖書を学び始めて、「夫婦は一体」という考えがあることを知った。人間の最初の夫婦はアダムとエバであると聖書にはあるが、アダムが自分の妻に出会ったときの記述には 「これこそついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉、これは“女”と呼ばれよう。男から取られたのだから」という詩的表現の後、次のような説明的記述がつづく 「それゆえに、男はその父と母を離れて自分の妻に固く付き、“ふたりは一体”となるのである(創世記2:24)」。


たいへん話が迂遠になったが、森友学園モンダイで安倍首相夫人の果たした役割のことだ。事の真偽は、よくわからない。よくわからないが、公私の問題や政治的中立の問題を問われるなどして、夫の政治生命をも奪いかねないキワドイところに顔を出していたということ自体が、そもそもモンダイなのではないかと思う。自身は一国の首相夫人、ファーストレディーである。

たいへんわかりやすく、他に説明などいらないと思うので、あえて比較してみたいと思うが、美智子妃殿下・皇后であれば、同じ行動を取ったであろうか。言うまでもないように思う。

(そもそも立場がチガウとお叱りを受けるかもしれないが、夫をもち、夫同様に社会的影響力があるという点では一緒であると思う)。


今、『ファースト・レディ』を(ウィキペディアで)調べたらオモシロイことが出ていた。アメリカの大統領夫人たちについて次のようにあった。(以下、オレンジ色文字は『ウィキペディア』からの引用)。

では「世界最強の男」といわれるアメリカ大統領の夫人はどうなのかというと、その一貫して控えめな姿勢は意外なほどで、政治に容喙するようなファーストレディはこれまでほとんど存在しなかった。

「控えめな姿勢」は、聖書的な背景・教養から出ているように当方は思う。なぜなら、聖書では、 「すべての男の頭はキリストであり、女の頭は男であり・・(コリント第一11:3)」とあって、家族のなかで指導的立場にあるべきは男性・夫であることが示されている。

そして、『ウィキペディア』のそれに続く部分が、さらにオモシロイ。なぜか、というと、最近読んだ『国際法』に関する本のなかで、下記大統領は、「人類を劣化させ、国際法を破壊し」「人類を野蛮な中世に回帰させた」大統領として紹介されていたからだ。ウッドロウ・ウィルソン大統領のことである。

唯一の例外がウッドロウ・ウィルソン大統領夫人のイーディスである。第一次世界大戦の戦後処理や国際連盟の設立などに奔走していたウィルソン大統領は、1919年9月25日に過労で倒れ、さらに10月2日には脳梗塞を発症した。この結果、ウィルソン大統領には左半身不随や左側視野欠損、言語症などの障害が残ってしまい、実質的な執務不能状態に陥った。しかし大統領府は大統領の執務不能という事態を秘匿し、副大統領や議会関係者を一切ホワイトハウスに近づけさせず、以後長期にわたってイーディスがすべての国政を決裁した[8]。こうした事実が明らかになったのは実にウィルソンの死後になってからのことで、これが後の大統領権限継承順位を明文化した憲法修正第25条制定への伏線となった

『国際法で読み解く世界史の真実(PHP新書)』の中で、「ウィルソンの悪事については『嘘だらけの日米近現代史』(当方未読)という本で取り上げているとも記されていた。その数々の「悪事」の背後には、「政治に容喙する」妻イーディスの影響があったのかもしれない。


話を元に戻す。

男性(夫)の“家族の中で”の責任について先に記したが、ある男性が“クリスチャンのグループの中で”指導的な役割を与えられるためには、資格を満たしている必要があることが聖書中に示されてある。その一つが自分の家族に対するものだ。次のようにある。 「監督は、とがめられるところのない人で、・・・自分の家の者をりっぱに治め、まじめさを尽くして子供を従わせている人であるべきです。(実際、自分の家の者を治めることも知らない人であれば、どのようにして神の会衆:クリスチャンのグループを世話するのでしょうか。)テモテ第一3:2、4、5

と、ある。そこで、最後に質問だが・・

安倍首相は、果たして、自分の家の者(昭恵夫人)を「りっぱに治め」、「従わせ」、監督していたのだろうか?


国際法で読み解く世界史の真実 (PHP新書)

国際法で読み解く世界史の真実 (PHP新書)

  • 作者: 倉山 満
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2016/11/16
  • メディア: 新書



嘘だらけの日米近現代史 (扶桑社新書)

嘘だらけの日米近現代史 (扶桑社新書)

  • 作者: 倉山 満
  • 出版社/メーカー: 扶桑社
  • 発売日: 2012/09/01
  • メディア: 新書



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丸谷才一の読書法(トリアタマのすすめ ?!)

丸谷才一の読書法について調べてみた。

と、言っても、その著作を実際に読んで確かめたわけではなく、他の方がそうしたものの中から、情報をひっぱりだした。『思考のレッスン』のブックレビューを参考にした。


思考のレッスン (文春文庫)

思考のレッスン (文春文庫)

  • 作者: 丸谷 才一
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2002/10/10
  • メディア: 文庫



そこには、以下のようなものがあった。


#「鳥頭○○」さんのレビューから抜粋

・読書の最大のコツは、その本を面白がること。その快楽をエネルギーにして進むこと。読書の効用は、1.情報を得られること。世の中には自分の知らないことがたくさんある、2.考え方を学ぶこと、3.書き方を学ぶこと

(レビューアーの鳥頭さんの「鳥頭」はバードブレインを意味するのだろうか。レビューを見ると、とても、トリアタマには思えない。よく整理されている。大体において、自分をトリアタマと称する人が、ほんとにトリアタマのはずがない。コピペをすると、トリアタマになるように聞くが、当方の場合トリアタマに「なる」以前に、もともとそうなので、レビューのコピペを勝手ながらヨシとさせてもらう。ということはつまり、当方と紀子氏とは眷属になるということか・・・。ちなみに英英辞典では、birdbrain: a foolish or unintelligent person / / a stupid or scatterbrained personとある)。

面白がるエネルギーを読む力にして押し進む。その際、学ぼうとする姿勢を保つ。目標を明確にし、謙虚である。

学ぼうとする謙虚さがおおくをもたらすということか・・・。

「水は高きから低きに流れる」。

赤塚不二夫さんのこと 
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2008-08-03-1


#南河内○○氏のレビューから

「考えること」「読むこと」「書くこと」/ あたりまえのことだが、それぞれ相互に関連しているということ。/ 中でも大切なのは、自らの頭で「考えること」。/ この本の主張は、ずばりこれだ。// 本のタイトルである「思考のレッスン」の最初の一歩は、/ 「不思議だなあ」と感じること。すなわち「良い問い」を発すること。/ そしてその「謎」(=疑問)を育てること。/ その際、自分の中に他者を作って、/ そのもう一人の自分に謎を突きつけていくことの重要性を指摘している。 ⇒<謎の明確化・意識化> // まずは、自分の心の中を眺める。見渡す。調べる。/ あわてて本を読んではならないともいう。/ そして、その謎に対して、直感と想像力を使って大胆不敵に、/ かつ大局観を持って仮説を立てること。// まさしく「良い問いは良い答えにまさる」なのである。 

「謎」を深めておく。本を読む前に、その本から得られるであろうことを(仮説を立てるなどして)明確にしておく。そのようにして、「知の空白」をつくっておくと、その真空状態に、おのずと「知識・情報」が流れ込む。

読む前に、「知の空白」をどれほど大きく育てておくかが重要なようだ。つまり、ある意味において、アタマをカラッポにしておくといいようだ。


なーんだ、結局のところ、バードブレインでいいんではないか・・。

自分は、「ほんとにトリアタマ」と思っている人ほど、賢くなれる。

トリアタマ万歳


鼎談・読書について 筒井康隆さん×丸谷才一さん×大江健三郎さん
http://book.asahi.com/clip/TKY201102020200.html


クラウド時代の思考術―Googleが教えてくれないただひとつのこと―

クラウド時代の思考術―Googleが教えてくれないただひとつのこと―

  • 作者: ウィリアム・パウンドストーン
  • 出版社/メーカー: 青土社
  • 発売日: 2017/01/25
  • メディア: 単行本



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感銘を与える青春映画『遠い空の向こうに』 [ドラマ]


遠い空の向こうに [DVD]

遠い空の向こうに [DVD]




ひさびさに古い映画をひっぱりだして見た。実話に基づくものだという。

採炭がジリ貧に向かう田舎の炭鉱町で、炭鉱のボス(中間管理職)を父親をもった主人公が、ロケットにうつつを抜かしていると見なす父との確執を経ながら、仲間、先生、年長の友人たちの協力・支援を得つつ、ロケットの打ち上げについに成功し、さらには高校生たちの間で行われる科学関連の賞を受賞し、父の理解も勝ち得て、田舎を飛び出して行く・・という話。

田舎を出て夢を実現することと、炭鉱から宇宙へ飛び立つことが、対照させられている。


DVDを手に入れて最初に見たときよりも、感動した。いい映画だと思った。繰り返し見たく思わせる力がある。お金はそれほどかかっていないだろう。こういう映画で、まだ見ていないものも多くあるはずだ。

松井のホームランの飛球の角度スピードを見て感じるようなのを「感銘」と言う、というようなことを芥川賞作家の誰か(たぶん、保坂 和志)が書いていたように覚えているが、ロケットの打ち上がる様を、ちいさなテレビ画面上で見ていても、感動した。

賞賛を言い表すのに「見上げたもの」と言うが、文字通り「見上げた」映画。


ちなみに、父親役がどこかで見たような気がすると思って、ウィキペディアで調べたら、『カポーティ』で刑事役をした人物(クリス・クーパー)だった。重厚な演技をするいい役者だ。

『冷血』の著者 T・『カポーティ』の映画を見た
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2016-02-27


カポーティ [DVD]

カポーティ [DVD]




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「火事場のばか力」読書法

花粉症がひどい。はなみずが出る。アタマも痛い。風邪をひいたかと思うほどだ。先日も、そんなことを書いた。今日は、パブロンをのんでいない。のむほどの頭痛ではない。

アタマが痛かろうがなんだろうが、本は読む。トルストイの「イワンのばか」にちかい。イワンは、腹痛がひどくても、ウンウン言いながら、畑を耕した。ひどい頭痛でも、ばかのイワンのように、ウンウン唸りながら、読み進めたいほどの本に出会いたいものだと、逆に思う。それで、無理がたたって死んでしまい、言わんこっちゃないとか言われても本望と言いたいところ。


イワンのばか (岩波少年文庫)

イワンのばか (岩波少年文庫)




速読のコツをいろいろ学んできた。一番いいのは、オモシロイ本に出会って、没頭するとき自然に速くなるようだ。しかし、それはコツでもなんでもない。オモシロくない本でも、速く正確に読み取り、それを暮らしに活かせてこそ、技術である。

たぶん、本をたくさん読んだ人の中でも上位にはいるのではないかと思う人に、井上ひさしがいる。その読書法をみると、決して速くはなりそうに思えない。蔵書をご自分の出身地に寄贈したような話を聞くが、資料として読んだものがほとんどなのだろうか。

『本の運命』に記されている読書法とは以下のようなものだ。

「井上流本の読み方十箇条」

その一、オッと思ったら赤鉛筆
その二、索引は自分で作る
その三、本は手が記憶する
その四、本はゆっくり読むと、早く読める
その五、目次を睨むべし
その六、大部な事典はバラバラにしよう
その七、栞は一本とは限らない
その八、個人全集をまとめ読み
その九、ツンドクにも効用がある
その十、戯曲は配役をして読む

これは、どう考えても、速読の方法ではナイ。その四に「早く読める」とあるが、結果そうなるということであって、速く読むことを勧めるものではない。

ちなみに、アーウーで有名だった自民党の故・大平正芳首相の郷里にある「大平文庫」には15000冊の蔵書が残っており、それは全部読み終えたものだという。

文章語を用いて論理的に語るために
(斉藤孝の「大人のための読書の全技術」から) 
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2015-09-24


本の運命 (文春文庫)

本の運命 (文春文庫)

  • 作者: 井上 ひさし
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2000/07
  • メディア: 文庫



同じ本のなかで、井上は丸谷才一と大江健三郎の名をあげて、お二人が「どういうふうに時間を都合してどうよんでいるのか、これは永遠の謎」と書いている。お二方はよっぽどの速読家であるのだろう。あったのだろう。どこかに、きっと秘訣を書いているにちがいない。調べたいところだ。秘訣を秘密のままで亡くなっていったのであれば、それまでだが、だれか、その本を読む様子を見た人もいるだろう。編集者とか、証言して欲しいものだ。大江さんは、ご存命なのだから、書き残して欲しいところ。

また、「僕は、司馬さんが本を読んでいるところを見たことがありますけど、あの方は 『写真読み』 です。文字を読むんじゃなくて、頭の中に写している」と井上は書いている。司馬遼太郎の読書法については、NHKクローズアップ現代の追悼番組でも紹介されていた。編集者の方が証言しているのを聞いた。喫茶店で編集者がコーヒーを1杯飲む間に、手帳にメモをとりながら、5冊くらい読んでしまうと言っていた。最近、司馬さんのホームドクターなる人の本を読んだが、司馬さんのは「ポイント読書法」であるとまとめていた。

そこには、こうあった。

《しかし、それにしても早い。何しろ、一晩です。私は恐る恐るうかがいました。/ 「先生は、今話題の速読法か何かおやりなのですか?」/ すると先生は、/ 「わたしはそんなものはやらん。要所要所をしっかりと読解するんだ。ここがポイントだという箇所に集中するんだ。そうすると自ずから、その部分が頭に入ってくる」 / これは司馬先生独自の『ポイント読書法』です。不要な部分は飛ばし、重要部分を瞬時に見分け、その部分に集中する。そしてそこを精読する。すると、必要なことだけが頭に残るのです。この方法は今日からでも活用できる読書法といえます》。

司馬遼太郎のホームドクターの本から
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2017-03-11

まだ、司馬遼太郎記念館の11万冊の書棚を見上げる機会はない。たぶん、見たなら圧倒されることだろうと思う。司馬さんのように、仕事柄、資料にせよ、趣味によ、大量に読まなけらばならない状況にあると、「火事場の馬鹿力」が発揮されて、常人を超えたことができるようになるのかもしれない。

「火事場のイワンの馬鹿力」を生みだせるように、自分を追い詰めるというのも、ひとつの方策か・・・。いずれにしろ、自分に合った方法を編み出していきたい。


司馬遼太郎記念館図録 『司馬遼太郎』

司馬遼太郎記念館図録 『司馬遼太郎』

  • 作者: 司馬遼太郎
  • 出版社/メーカー:
  • 発売日: 2014
  • メディア: 大型本



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国際社会で生き残るためには、ヤクザに見習えばいい・・?

坂本龍馬が、「これからはこれの時代ぞね」とかなんとか友人に言いながら、「万国公法」という書物を見せて、もはや武器を振り回す時代ではないと言ったとか言わないとかいう話がある。福澤諭吉がその自伝で、フツウより長めの刀を持参した友人の前で、その刀で居合いの型をいくつか示し、これほどの腕前のある自分が廃刀したのだから、君も刀など捨てたまえと言ったというのと重ねて覚えている。

それで、「国際法」に関心があって、以下の本を手にしたのだ。が・・・


国際法で読み解く世界史の真実 (PHP新書)

国際法で読み解く世界史の真実 (PHP新書)




『国際法で読み解く世界史の真実』という本のタイトルを、当初たいへん胡散臭く感じた。「・・・の真実」というたぐいの本は、その実、たいへん不・真実であったりする。それに、バーっとページをめくって見たところ、国際連盟の立役者ウッドロー・ウィルソンを国際法を破壊した人物のように扱ってもいる。それで、常識人(当方のこと)としては、いよいよ胡散臭く思ったのである。国際法の権威と称する方々が、この本をどのように評価しているのか、つまりアカデミックな見地からいってマトモな本なのか確認したい衝動を覚えるほどだった。

それが、読みはじめると、めっぽうオモシロイ。それが「真実」かどうかは知らないが、少なくとも、本書のなかで記述されている内容は、本書のなかで整合性があるように思われる。要するに、信頼していいように思う。《「ウェストファリア条約」の紹介から始めない(国際法の)教科書はまがい物と思ってください》とあるが、その通り、「ウェストファリア条約」から始めてもいる。つまるところ本書は、国際法のめっぽうオモシロイ教科書といっていいのだろう。

今日の諸国家のふるまいが、国際法の理解の仕方を反映していることが示される。国際法の生い立ち、展開、その歴史的側面も示される。ヨーロッパ法とも呼ばれる国際法を盾に、列強がアジアの非文明国に進出し、支配下に置いてきたこと。そうした中、幕末日本が締結した不平等条約を撤廃するため、明治新政府が欧米列強と「対等」な立場を獲得し、文明国として扱われるため、「国際法」を盾にどのような闘いをしたのか。片や、国際法を理解しなかった朝鮮、清国はどう対応したか。そのチガイを比較しつつ示される記述は興味深い。そして、なによりも、現代・現在の日本の外交のありようが、マトモかどうかの判断もできる。その判断がマトモかどうかは、本書の記述が「真実」かどうかにかかっているが、どうも評者には「真実」のように思える。

日露戦争でバルチック艦隊を相手に勝利した東郷平八郎元帥のことを、海軍の面々は「東郷ハガネ」という商標をもじって「東郷バカね」と言っていたと阿川弘之著『井上成美』に出ていたと思う。さらに井上が、江田島の海軍兵学校長時代、東郷の事績を調べさせて報告させ、たいした人物ではない・・と悟らせたというような話も読んだ。が、対露戦争以前、日清戦争に向う時期、清国艦船と行動している英国商船を、国際法を遵守しつつも(清の武器運搬に協力したことを理由に)撃沈し、乗っていた英国人は保護したことで、英国の国際法の権威から賞賛されていたなどの情報も本書で知った。外に、陸奥宗光、小村寿太郎などへの記述もある。それらを読むと、誇らしい気分にならないでもない。

国家として見做される要件、主権の意味、国際法は強制法ではなく合意法であり、世界政府が存在しない以上、国際社会は、仁義で動くヤクザの世界に等しい・・など、目からウロコが落ちるような話にこと欠かない。本書が、国際法の教科書として、アカデミックな見地からどう評価されているかは知らない。それでも、読んでオモシロイ本であることは保証できる。

「品格」を身に着けるために(2):福沢諭吉先生のこと 
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2007-03-09

坂本龍馬と『万国公法(ばんこくこうほう)』に関するエピソード
http://blog.livedoor.jp/golden__cadillac__/archives/1293470.html

************
以下、第2章 武器使用マニュアルとしての「用語集」/ 2慣習と条約 大事なのは「慣習として成立しているかどうか」 からの抜粋(p67-8)


紙に書かれた条文より慣習が大事なのは、なぜか。それは、「国際法」とは、つまりは「仁義」だからです。もともと王様どうしの約束(仁義)として成立したので、実際に守るかどうかの仁義、信頼関係のほうが大事なのです。

仁義というと、ヤクザの親分どうしの約束事のように思う人もいるかもしれませんが、まったくそのとおりです。ちなみに、国際政治と国内政治とヤクザの論理が全部同じものだとわかっていた日本の政治家がハマコーこと浜田幸一でした。

ハマコーこと浜田幸一先生のこと 
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2007-09-06

ヤクザの親分が仁義を守るのは、自分より強い相手から制裁されないため、口実を与えないためです。ムカつく奴、倒したい敵を攻撃するときには、逆に因縁をつけるという形で使います。当然ですが、弱い相手との仁義は守らなくてよいことになります。より正確にいえば、弱い相手との仁義を破って、他の誰からも因縁をつけられないとき、その弱い相手との仁義は守らなくてよいのです。

仁義を破られたほうはどうするか。泣き寝入りすれば、仁義は紙切れと化したことになります。降りかかった火の粉を自分で払い、仁義を破った相手を制裁することができれば、紙切れではなかったことになります。「相手に仁義を守らせることができるかどうか」は、ひとえに自力救済する実力があるかどうかにかかっています。国際法の世界では、悪いこと(仁義違反)をした者よりも、それを咎めだてしない者のほうが悪いのです。

ヤクザの世界で生き残ることができるのは、自分の身を自分で守ることができる組だけです。仁義は、その重要な一つの武器です。暴力やカネと同様に。

国際社会も、まったく同じです。

衆院選いよいよ (浪曲師 国本武春『大忠臣蔵』とからめて) 
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2014-12-02


井上成美 (新潮文庫)

井上成美 (新潮文庫)

  • 作者: 阿川 弘之
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1992/07/29
  • メディア: 文庫



福翁自伝 (ワイド版 岩波文庫)

福翁自伝 (ワイド版 岩波文庫)

  • 作者: 福沢 諭吉
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1991/06/26
  • メディア: 単行本



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石原慎太郎さんの「棺をおおいて」定まる評価は・・・ [スピリチュアルな話題]

「まっとうする」とはいい言葉だ。

なんであれ、まっとうすることができたなら、賞賛に値するように思う。

なんらかの仕事をまっとうするというだけでなく、人生をまっとうするとは、まっとうした姿とはどういうものだろう・・・。

社会的立場、知名度が高いほど、人々の注目は集まり、期待が大きければ、いろいろ言われることになる。

『棺を蓋いて事定まる』という言葉がある。人の評価が定まるのは亡くなってお棺のフタを閉じてからという意味だという。出典は晋書だそうだ。

その点、石原慎太郎という人物は、どのように評価できるのだろう。上の言葉には、『棺を蓋いて事定まる』だけに、生きているうちに評価を安易にしないようにという意味もあるという。「晩節を汚す」のではなく、「晩節をまっとう」して欲しいものだ。

『聖書』にも「晋書」同様の言葉がある。『名は良い油に(まさり)、死ぬ日は生まれる日に勝る』という言葉だ。

そのことを過去に書いた気がして、調べたら、10年も前の記事が出てきた。ちょうど盂蘭盆の時期に書いている。やはり彼岸や盆にはなんとなく、思いがそのような方に向うらしい。きのう今日と臨死体験やらお棺やらの話になってしまった。

「盂蘭盆」に“聖書”の言葉を一つ
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2007-08-13-1

石原さんのことは、ここでは書かない。それでも当該ブログで、過去に記事を15ほど書いている。以下、参考まで
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/search/?keyword=%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E6%85%8E%E5%A4%AA%E9%83%8E

***********
(以下「晩節を けがす」ではなく「晩節を まっとうする」の例文)

『晩節を全うするに非ざれば/吉田松陰一日一言』

国強く勢盛んなる時は、孰(た)れも忠勤を励(はげ)むものなり。国(くに)衰(おとろ)へ勢(いきおい)去(さ)るに至りては、志を変じ敵に降(くだ)り主(あるじ)を売る類(たぐい)寡(すくな)からず。

故に人は晩節を全うするに非ざれば、何程(なにほど)才智学芸ありと雖(いえど)も、亦(また)何ぞ尊(たっと)ぶに足らんや。明主(めいしゅ)に忠あるは珍しからず、暗主に忠なるこそ真忠なれ。

安政二年十一月十二日「講孟箚記」

【訳】
国が強く、勢いが盛んな時には、誰でもまごころを尽くすものである。しかし、国が衰え、勢いが去ってしまうと、志を変えて敵に降参し、主人を売るようなタイプの人間も少なくない。

だから、人は晩年の節操を全うするのでなければ、どれ程才能があり、頭の回転が速く、幅広い知識があったとしても、尊敬するほどの価値はない。

立派な主人に仕えてまごころを尽くすことは、珍しいことではない。おろかな主人にまごころを尽くすことこそ、本当の忠臣である。

https://www.facebook.com/syoin.yosida/posts/498385750196759から引用
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「彼岸過ぎまで」 / 死ぬのは気持ちいい?

彼岸の連休、街中は車が多く、花店も盛況にみえた。

夏目漱石に『彼岸過迄』というのがある。胃潰瘍で死にかかった後の作品で、ここから暗い「後期三部作」が始まるといわれている。新聞に連載するにあたって、彼岸過ぎまで書く予定だからそう名づけた題名であるという。(「続きを読む」部分に、漱石の巻頭緒言を引用)


彼岸過迄 (新潮文庫)

彼岸過迄 (新潮文庫)




医師 毛利孝一(故人)による著作に『生と死の境』という本がある。いわゆる臨死体験のことが記されてある。東京書籍から出ていた。残念ながら、現在入手できない。


生と死の境 (1985年) (東書選書〈97〉)

生と死の境 (1985年) (東書選書〈97〉)

  • 作者: 毛利 孝一
  • 出版社/メーカー: 東京書籍
  • 発売日: 1985/10
  • メディア: -



「臨死体験」とはいっても、体を抜け出た魂がアノ世に行って帰って来たという報告などではなく、脳内麻薬ベータエンドルフィンの作用についての話で、死に瀕した「生と死の境」における気持ちについての考察だった。まさに死のうという時、たとえ苦悶にみちた様子であっても、実際のところは、傍目で思うようなものではなく、回復した後に問い尋ねてみると、そうではなく、「気持ちがいい」という・・、そんな話だったと思う。

今、その本を探したのだが、手元にない。家の中にあるのは確かなのだが、行方知れずとなっている。それで、記憶にたよって書いているのだが、たいへん印象深く思ったのを覚えている。

そこに漱石の話も出ていた。胃潰瘍の大量出血で危篤に陥ったとき、ベッドサイドで医師たちが、話していたことを回復して後に記したものを引用していた。危篤状態で、もうダメに見えても、聴覚は残っているので、注意が必要であると感じた。そのとき、医師たちは、もうダメであるかのようなことを言っていたらしい。それでも、苦しさはなかったようで、そのことと脳内麻薬ベータエンドルフィンとを著者が結びつけていたのだったと思う。

漱石だけでなく、宮沢賢治の喀血したときのことも、詩の引用から説明されていた。「青い風」が吹いている・・という内容の詩であったと思う。自分を見守る人たちには、ゴボゴボと血を吐いている姿は、いかにも凄惨きわまりなく、苦しそうに見えるだろうけど、「青い風」が吹いて、自分はいたって気持ちいい・・という内容だったと思う。

それを読み、また、自分の見た経験、瀕死状態を経験した方からの話を聞いて、死ぬ間際というのは、気持ちいいにちがいないと思っている。

月夜の幻惑ーモノがたりーその9
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2006-03-25

脳内麻薬と頭の健康―気分よければ頭もまたよし (ブルーバックス)

脳内麻薬と頭の健康―気分よければ頭もまたよし (ブルーバックス)

  • 作者: 大木 幸介
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1988/09
  • メディア: 新書



聖書によると、「罪の報いは死」と記されている。人類の共通の祖先アダムとエバが神の命令に背いて「罪」を犯した結果、その子孫である人類全体が死を免れえなくなったというのが聖書の教えだが、神は、アダムの子孫に憐れみをお示しになり、死を受け入れやすくして下さったのではないか・・と当方は勝手に思っている。 

旧新約聖書―文語訳

旧新約聖書―文語訳

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 日本聖書協会
  • 発売日: 1996/12
  • メディア: 単行本


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「書く」ということ・・村上春樹 チャンドラー、松本清張 吉川英次、アラン、ヴェイユ、スタンダール

「森友学園」の園長が国会に呼ばれるということだが、「第2の森友」加計学園の方はどうなったかと「第2の森友学園」で検索すると、内田樹が自身のブログ(『内田樹の研究室』日時: 2017年02月28日 13:08)でフランス新聞『ル・モンド』の2月27日付け記事を紹介している。

それで、思いがソチラに行ってしまった。簡単に、人の関心、思いは逸らされる。手品と同じである。そうしたスキに騙される・・・。

ル・モンドの記事から(森友学園問題)
http://blog.tatsuru.com/2017/02/28_1308.php

そこでは「森本学園」を、「日本で最初で唯一の神道小学校」と紹介しているらしい。フランスの新聞から、学園の正体を知らされた感じだ。


『ル・モンド』から世界を読む 2001-2016

『ル・モンド』から世界を読む 2001-2016

  • 作者: 加藤 晴久
  • 出版社/メーカー: 藤原書店
  • 発売日: 2016/08/26
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



その後、ほかにどんなことを内田が記しているのかと、見ると、村上春樹のことを書いている。

2017.03.01
境界線と死者たちと狐のこと
http://blog.tatsuru.com/2017/03/01_1404.php

目に留まったのは次の点だ。

村上春樹は日課的に小説を書いている。これはエッセイやインタビューで、本人が繰り返し証言していることである。鉱夫が穴を掘るように、作家は毎日小説制作の現場に「出勤」し、そこで一定時間、穴を掘る。金脈を探す鉱夫と同じように。日々穴は掘った分だけ深くなるけれど、鉱脈にはめったに堀り当たらない。何十日も掘り続けたが、何も出なかったということもたぶんあるのだろう。でも、いつか鉱脈に当たると信じて、作家は掘り続ける。

村上はこの態度についてはレイモンド・チャンドラーの執筆姿勢を範としていると述べたことがある。チャンドラーは毎日決まった時間タイプライターに向かった。彼が自分に課したルールはそこでは「書く」以外のことをしてはいけないということである。本を読んだり手紙を書いたりしてはいけない。書くことが思いつかなかったら黙って座っている。決められた時間が来たら、どれほど「乗って」いても、筆を擱いて、その日の仕事は終わりにする。粛々と聖務日課を果たすよう執筆する。

それについて村上自身はこう書いている。

「生まれつき才能に恵まれた小説家は、何をしなくても(あるいは何をしても)自由自在に小説を書くことができる。泉から水がこんこんと湧き出すように、文章が自然に湧き出し、作品ができあがっていく。努力する必要なんてない。そういう人がたまにいる。しかし残念ながら僕はそういうタイプではない。自慢するわけではないが、まわりをどれだけ見わたしても、泉なんて見あたらない。鑿(のみ)を手にこつこつと岩盤を割り、穴を深くうがっていかないと、創作の水源にたどり着くことができない。小説を書くためには、体力を酷使し、時間と手間をかけなくてはならない。作品を書こうとするたびに、いちいち新たに深い穴をあけていかなくてはならない。しかしそのような生活を長い歳月にわたって続けているうちに、新たな水脈を探り当て、固い岩盤に穴をあけていくことが、技術的にも体力的にもけっこう効率よくできるようになっていく。」(『走ることについて語るときに僕の語ること』、文藝春秋、2007年、64-65頁)》 


これに類することは、松本清張も言っていたらしい。『ラジオアーカイブス』で、大村彦次郎さんが話していた。ツクエの前にどれほどいられるか、忍耐勝負であるように言っていたという。同じく『・・・アーカイブス』で、吉川英治を扱った際、吉川もそう言っていたので、司会者の宇田川さんも、(吉川と)同じことを言っているのですねと言っていたように覚えている。

NHKラジオアーカイブス「広津和郎」
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2013-12-10

ちなみに、アランやその弟子のシモーヌ・ヴェイユも、同じようなことを肝に銘じて執筆していたようだ。それはスタンダールから学んだものであるということだから、ここに紹介しただけで、7人が同じようなことを言い、実践していたことになる。もっとも、アランの指導法は、ちょっと厳しい。弟子に厳しいだけでなく、自分にも厳しかったようだ。以下は、『東ゆみこのウェブサイト』(アランとシモーヌ・ヴェイユの思考法)から抜粋。

「スタンダールにならって少なくとも日に二時間はものを書くように。また、書いたものを消したり、訂正したりしないように」。

なぜなら、「『書く』という作業は、思考を強い、そして、訂正せずに文章をつづるという訓練は、思考の明快な流れを持続させて行く努力を要求する」から。

この教えを忠実に守った結果、ヴェイユは、「すべてにぬきんでたスピノザの注解」(アランによるコメント)をなしとげ、「過酷な工場生活のさ中にも、頭痛にうちひしがれているあいだにも」「ペンをとって自分の思索を紙上に書きとめるという作業を中止しなかった」ということです。

ちなみに、ヴェイユの師であるアランの『プロポ』(みすず書房)は、「二枚の便箋に、訂正なしで一気呵成に」、30年にわたって書き続けられたものだという解説が、みすず書房のホームページ上にありました。

どうも・・、「書く」ということは、石の上にも三年のツクエの前の忍耐勝負ということに尽きるらしい。体力がないと到底できそうもない。


2016/08/10
アランとシモーヌ・ヴェイユの思考法(東ゆみこのウェブサイト)
http://mythology.tea-nifty.com/higashiyumiko/2016/08/index.html#entry-85702353


シモーヌ・ヴェイユ―その極限の愛の思想 (1968年) (講談社現代新書)

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  • 作者: 田辺 保
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1968
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戯作三昧

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  • 出版社/メーカー:
  • 発売日: 2012/09/27
  • メディア: Kindle版



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国の政策=〈被災者らに「寄り添って」押し殺す〉? [政治・雑感なぞ]





池上彰が、上記イメージ書籍の中で、『毎日新聞』をほめている。

といっても、全体というのではなく、「記者の目」というコラムのことでだった、と思う。ほめた・ほめない云々(・・「ウンヌン」と読みますよね、最近どこかの国の首相は、これを「デンデン」と読んで、歴史に名をのこす「デンデン首相」となられたかに見えたが、だれも、喧伝(ケンデン)しないのか、麻生元首相の「未曾有:ミゾウ」事件ほどではないらしい・・)ではなく、ただ単に『毎日新聞』の特筆すべき点として、記者個人の自由度が高いこと、会社の方針に沿ってしか書けないというわけではないことを示していただけだったようにも思う。

本日の「記者の目」は、原発被災民のことが扱われている。6年経過している。タイトルにも記したが、当方の言葉でマトメルなら、〈被災者に「寄り添って」押し殺す〉のが、国策と、言いえるように思う。

(以下、全文引用/ 強調表示は環虚洞)

**********

記者の目 .
東日本大震災6年 原発事故と国策
日野行介(特別報道グループ)

被災者置き去り、加速

東京電力福島第1原発事故から6年。被災者政策は大きな区切りを迎える。政府は自主避難者への住宅提供を打ち切り、一部を除き避難指示を解除する。避難者への賠償は避難指示と連動しており、解除は賠償打ち切りに向けた最後のステップとなる。経緯を見る限り、政府が掲げた「復興の加速化」とは、原発避難の早期幕引きが正体だったと言うほかない。被災者の納得がないまま一方的に進めているようにしか見えない「国策」は、民主主義の基盤を壊しつつあるように思える。

ここ数年、原発事故に関する調査報道を続けてきた。健康調査、自主避難者、住宅政策、除染とテーマを変えながら、政策決定の裏に潜む為政者の真意を追いかけた。テーマにより担当する省庁や官僚は違うのに、密室で検討し、被災者の要望とかけ離れた施策を打ち出して「決まったこと」と押し付ける。この行動パターンはいつも同じだ。

一方的な決定 「二重基準」も 

例を挙げたい。一般人の放射線被ばく限度は年間1ミリシーベルトだが、政府は事故発生直後、「緊急時だから」と年間20ミリシーベルトを避難指示基準とした。2011年12月の「収束宣言」で緊急時を終えたことにして、避難指示区域の再編を進めると、次は指示の解除基準の検討を秘密裏に始めた。13年4月以降、経済産業省や復興庁などの担当課長らが密室で検討を重ね、「政権に迷惑をかけないように」(関係者)と同年7月の参院選が終わるのを待って、年間20ミリシーベルトを下回った地域を解除する方針を表に出した。何のことはない。年間20ミリシーベルトが緊急時の基準から平時の基準にすり替わり、1ミリシーベルトの基準は「なかったこと」になった。

それから4年近く。福島県の浪江町や富岡町の避難者を対象にした説明会では、今春の避難指示解除に賛成する意見はほとんどなかった。被災者がしばしば口にする「無用な被ばく」という言葉が表す通り、事故による被ばくを引き受ける理由は皆無だ。ましてや意見を無視されたまま、一方的に決められるのでは納得できるはずもない。

さらに問題なのは、密室での決定過程について不都合な部分を削除し記録を残さず、事後の検証すらできず、責任をあいまいにすることだ。

政府は16年度で除染をおおむね終える。残された膨大な汚染土について環境省は昨年6月、公共工事への再利用方針を打ち出し、専門家を交えた非公開会合で汚染土1キロ当たり8000ベクレルを上限とする再利用基準を決めた。だが、原発解体で出る鉄などの廃棄物の再利用基準は100ベクレル。非公開会合で話し合ったのは、この「二重基準」のつじつまを合わせることだった。

昨年6月にこれを報道し、情報公開請求が相次ぐと、環境省は一転して議事録を公表した。ところが「全部開示」の扱いとしながら、8000ベクレルの結論ありきで誘導したと受け取れる環境省担当者の発言などを削除していた。

政治家や官僚たちは「被災者に寄り添う」などと美辞麗句を繰り返してきた。それでも復興庁参事官による「暴言ツイッター」など「真意」をのぞかせることがある。浜田昌良副復興相(当時)は15年8月、自主避難者を対象にした「子ども・被災者生活支援法」の成立を主導した国会議員との非公開面談で、住宅政策を巡りこんな発言をした。「基本的に自主避難は支援しない前提で引き受けている」

浜田氏は12年12月、第2次安倍政権の発足とともに副復興相に就任し、自主避難者支援を担当してきた。自主避難者にとって住宅提供は最も期待した政策だった。にもかかわらず、自主避難者の支援などするつもりがないと放言しているに等しい。こうした発言をする政治家が本当に被災者に寄り添っているのか、疑問を抱かざるを得ない。

国の協議非公開 議事録は黒塗り

被災者は常に蚊帳の外に置かれてきた。原発事故の被災者政策を協議する国と自治体の会議は多くが非公開で、後から議事録を情報公開請求しても「公にすれば混乱を生じさせる恐れがある」としてほとんど全面黒塗り(非開示)だ。存在自体を隠した「秘密会」の中では「いかに情報を外に出さないか」ということについても話し合っていた。

当たり前のことだが、政策に関する情報を公開し、決定プロセスを透明化しなければ、民主主義は成り立たない。被災者、そして国民の意見を無視して、政府が一方的に形ばかりの幕引きを急いでいるように見える「国策」の手法は、民主主義の基盤を危うくしかねない。これも原発事故の重大な「被害」であろう。「あの事故の処理が曲がり角だった」と、後世に言われないよう、こうした被害の実態も見つめ直さなければならない。

http://mainichi.jp/articles/20170317/ddm/005/070/026000c#csidx4fe4f02311b22568ee02ee0f60f21f7
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アチラでもコチラでも「住民置き去り」でモノゴトが進んでいる
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2015-03-14

日本も韓国も、民意より 「国意尊重」
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2015-12-30

民主主義に代わるモノ 
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2014-12-11
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