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格差社会と「生存権」問われる憲法25条ーその2- [ニュース・社会]

弱者に対する支援の精神の無い格差社会は破綻すると思いたい。

弱者支援の精神は日本の社会に息づいているのだろうか?

あるのはタテマエだけといったことはないのだろうか?

 

憲法は英語で constitution だ。

この国のかたち〈1〉 以前、司馬遼太郎さんの「この国のかたち」について、井上ひさしサンが constitution という言葉を引き合いに出して話していた。

要するに「憲法」という言葉はムズカシイことばだが、「憲法」に相当する英語のconstitution は構成、骨格、本質 という意味で、司馬さんは『この国の“かたち”』と題した時に、憲法について考えていたのではないか・・・」という話しだった。

 

日本の主権者は国民だ。その国民が、自分を律する法の骨格を成すモノ、大原則として、自(国民)他(国際社会)に対して表明したものが憲法である・・と思う。

 

その憲法25条は次のようなものだ。

第1項:すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

第2項:国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

 

以下は今日付けの毎日朝刊の記事の引用である。

「戦後の日本が目指した『福祉国家』が曲がり角を迎えている。国や地方の財政難を背景に、福祉の高コスト体質が見直されている。社会の隅々で競争原理が強調され、国民の間に広がりつつある格差。競争からこぼれ落ちた人を救う最後のセーフティーネットである生活保護の受給者は年々増え続け、140万人、100万世帯を超えたが、「自助・共助」「自己責任」といった考え方の下、国や自治体は自らの関与を最小限にとどめようとしている。国民の生存権と、それを保障する国の義務を規定した憲法25条。いま、その意味を、現場から問い直したい。」

とあって・・・具体的な憲法判断が示された実例として、肺結核患者の朝日茂さんが1957年8月厚相相手に「生活保護法に基づき生活扶助費として福祉事務所に決められた」支給額が第1項の「権利をじゅうりんするものである」として起こした『朝日訴訟』について取りあげられ・・、

最高裁判決で「健康で文化的な最低限度の生活」については「国の責務として宣言したにとどまり、直接個々の国民に対して具体的権利を付与したものではない」と、生存権についての 行政の裁量に委ねる限定的解釈 を示したことが報じられている。

 

では「裁量を委ねられた行政」が、ドノヨウニ動いているかといえば・・

実例として 1994年。埼玉県桶川市で、一人暮らしの79歳の女性が「生活保護者家庭にはぜいたく」との理由で、市に自宅のクーラーを取り外された事態が上げられている。

 

真面目にこつこつ生きてきてもナンラカノ事情で貧窮することはありえる、きちんと救済できる方策があれば良いと思う。

 

古代イスラエルの律法(神からモーセに与えられたとされる)には『落穂拾い』に関する規定がある。麦の収穫の際に、地面に落ちた麦の穂を拾い集めたり、畑の隅の麦を刈りつくしてはいけないことになっていた。貧しい人や外国人、やもめが落ち穂を拾い、畑の隅の麦を刈り取って糧とするためであった。畑の所有者は、収穫が神に依存していることを感謝のうちに示し、貧しい人のために意図的に多く取り残すこともできた。貧しい人は、ただ貰うのではなく、自らも労働することで、自尊心を保つこともできた。・・・(申命記24:19-21)

 

私は格差社会はシヨウがないと思うが、ツマラナイと思う。一元的な価値、カネを多くもつ・もたないで格差が生じ、それで、「勝ち組」だの「負け組」だのと優越劣等を自覚させられる社会など御免被りたいところだ。

 

インドでは乞食(こつじき)が大切にされた。大切にされる社会だから仏陀らが思想を発展させることができた。ズダ袋一つで遊行できた。行く先々で食うことができた。衆生が有り難がって食物を分けてくれた。思想家が尊ばれず、食うことのみ、カネモウケのみに追われる社会だったら、仏陀はただのコジキで死んだにちがいない。


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