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『芝居が人生』渡辺保(日経新聞記事から) [ドラマ]

日経新聞8月6日文化面に、渡辺保さんのエッセイが出ている。

「最近劇場の暗い客席で、フッと思うことがある。私は今、なぜここに座っているのか。」

と、始まる。

全体を読み通すと、ひとりの役者に6歳で魅了されて以来、「あれから70年余り」ずっと芝居漬けで来たものの、昨今の芝居に、言い知れない違和感を覚えておられるようである。

でなければ、「今、なぜ」などということにはならない。

そもそも、魅了されている人は、今を問わない。今に吞みこまれて、時間を知らない。

「数え6歳。物語の筋も役者の芸も知らなかった。にもかかわらず六代目(菊五郎)は私を引き付けてやまなかった。」

という。

そして、「三宅周太郎の劇評集『演劇巡礼』」を読んで、「劇評家になりたいと思った」という。


やはり、幼少の者をも魅了する、わけもわからず魅了するモノというのはある。

渡辺さんは、劇評家を目指したわけと、自分の人生における(また演劇史における)エポックメイキングな芝居をあげつつエッセイを書きすすめるのだが、今の芝居に違和感を否めないようなのである。

***以下、エッセイの末尾部分を引用***

以上、三つの作品(ベケット『ゴドーを待ちながら」、蜷川幸雄演出清水邦夫『真情あふるる軽薄さ』、鈴木忠志『劇的なるものをめぐって』)は演劇の革命であった。ベケットは物語を破壊し、蜷川は舞台空間の制度を否定し、鈴木は俳優の身体を改造した。そうなると新劇はむろんあらゆる舞台が醜い虚構の姿をさらし、嘘っぽく見えてくるのは当然だろう。これが近代のつくった演劇の体制の破壊であった。むろん私たちは今でも近代のつくった体制の基盤の上に生きている。しかしそれだけでは決して覆いきれない新しい感覚も生きている。それが革命の意義であり、現代という時代である。この現象は単に現代演劇ばかりでなく演劇界全体に広まった。歌舞伎のような一見時代の流れと無関係に見える分野にも影響を与えた。

**  **  **

そしてそれからさらに40年ちかくたった今、かつての革命の意味、現代の意識が希薄になってきている。

そのいい例が歌舞伎だろう。歌舞伎のように様式性のつよい演劇は、リアルな演劇にくらべて、ことさらその規範を大事にする。その規範が近代から現代への変動、あの演劇革命によって大きく転換した。今日新しい近代から現代へと移行したその規範が吉右衛門や仁左衛門、玉三郎によってつくられつつある。しかしその一方、その最も大切な部分が失われつつある。宙乗りや早変わりなどの視覚的なものばかりが重視され、演劇的な本質ーーたとえば芸の本格が見失われつつある。本格的な芸は目に見えない物を含んでいるからであり、言語化しにくいからである。しかしたとえ目に見えなくともそれを失えば、歌舞伎は精神的な、人間的な感動とそのユニークな造形の美しさを失ってただの時代劇と同じになってしまう。それはあの革命の意味が見失われていった結果である。

むろんこの傾向は歌舞伎に限らない。現代演劇のなかにもある。新しい可能性のある劇団やすぐれた舞台のある一方で、こんな作品にどんな意味があるのかと思うような芝居が巷に溢れている。そういう作品に出合った時、私は冒頭で触れたような、なんで自分は芝居なんか好きになったのかという暗澹たる思いにとらわれざるを得ない。おそらくこれは単に芝居ばかりの問題ではないだろう。日本社会が規範を失った結果を映しているのである。

**引用ここまで**

渡辺さんは、エポックメイキングな作品3つをあげる際に、次ぎのように記す。

「シェイクスピアのいう通り舞台は社会の鏡。その社会の深層の変化はたちまち舞台にあらわれて私たちの体験になった。その体験を象徴する三つの例を引く。」

どうも、このエッセイをとおして、ほんとうに渡辺さんの言いたいのは、芝居のことはもちろんだが、それよりも実は、自分が日本社会に感じている違和感のようにも見受けられる。

つぎのような文章もある。

「この戦後70年。幸いなことに日本は平和憲法のおかげで平和に過ごしてきた。しかし、時代の深層では大きな事件を体験している。1960年代から70年代にかけての激動とともに起こった、戦前から続いた近代から今日の現代への転換であった。」


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