ブログ・タイトルを「当方見聞録」に変更
ブログ・タイトルを「当方見聞録」とする。もちろん、マルコ・ポーロの「東方見聞録」がアタマにあってのことだ。要するに、駄洒落である。

ブログを更新するうち、いつのまにか、自分を「当方」と称するようになった。それで、「当方」の見聞したところを書いていこうというわけである。
さりとて、何を「見聞」しているかというと、ほんとうに情けないほどせまい範囲をしか生きていない。居住する地域のなかを動き回り、せいぜい図書館に行き、本を借りて読み、ラジオを聞き、新聞を読み、ネット空間をおよぐ程度の生活をしかしていない。だから、見聞することは、限られている。そして、基本的にプライベートなことは書きたくない。
つまり、当該ブログで、見聞し・報告される内容は「知れたもの」である。「見聞」の価値は、事実を見たとおり聞いたとおりに報告することにあるのだろうが、「知れたもの」の報告など読んでもオモシロくないにちがいない。マルコ・ポーロが未知の領域に踏み込んで報告したのとはちがう。未知の領域の報告であれば、のちのち「知れたもの」となるアリキタリのことがらでも、新鮮に受け入れられるのだろうが・・・。
仮に、「当方見聞録」に醍醐味があるとするなら、見聞したことが、「当方」のなかで、どう受け留められ、受容されていく(る)かということになろう。そこには、『聖書』を40年ちかく、毎日のように読み、それがそのとおりかどうかと調べてきたフィルターが否応なくかかっていることと思う。また、ユングをはじめとする心理学の影響や、読んだものの忘れてしまっている雑多な読書の影響もあることだろう。そうしたなかで、自ずと現れてくるのが「当方」の個性であり、読んでくださる方は、結局のところ当方の「個性」に接することになるのかもしれない。そこで、まさに「環虚洞」だと感じてもらえたなら幸甚である。
「閑居堂」あらため「閑巨堂」あらため「環巨洞」あらため「環虚洞」
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2015-10-26
全知全能でない人間の見聞するところは、所詮、全体のうちのほんの一部である。それゆえ、そこから発せられる意見・等は、どんなにまっとうに見えても、偏見に過ぎない。偏見という言葉に含まれる否定的な感情を考慮するなら、誠実な偏見ということもできる。それゆえにまた、せめてどこまでも、誠実さだけは保ちたいと思う。
「群盲象をなでる」の言葉があるが、当該ブログに記されることも、それら盲人のひとりのたわごとにすぎない。それでも、たわごとには、たわごとなりの価値があると思いたい。

マルコ・ポーロ―『東方見聞録』を読み解く (世界史リブレット人)
- 作者: 海老澤 哲雄
- 出版社/メーカー: 山川出版社
- 発売日: 2015/12
- メディア: 単行本
ブログを更新するうち、いつのまにか、自分を「当方」と称するようになった。それで、「当方」の見聞したところを書いていこうというわけである。
さりとて、何を「見聞」しているかというと、ほんとうに情けないほどせまい範囲をしか生きていない。居住する地域のなかを動き回り、せいぜい図書館に行き、本を借りて読み、ラジオを聞き、新聞を読み、ネット空間をおよぐ程度の生活をしかしていない。だから、見聞することは、限られている。そして、基本的にプライベートなことは書きたくない。
つまり、当該ブログで、見聞し・報告される内容は「知れたもの」である。「見聞」の価値は、事実を見たとおり聞いたとおりに報告することにあるのだろうが、「知れたもの」の報告など読んでもオモシロくないにちがいない。マルコ・ポーロが未知の領域に踏み込んで報告したのとはちがう。未知の領域の報告であれば、のちのち「知れたもの」となるアリキタリのことがらでも、新鮮に受け入れられるのだろうが・・・。
仮に、「当方見聞録」に醍醐味があるとするなら、見聞したことが、「当方」のなかで、どう受け留められ、受容されていく(る)かということになろう。そこには、『聖書』を40年ちかく、毎日のように読み、それがそのとおりかどうかと調べてきたフィルターが否応なくかかっていることと思う。また、ユングをはじめとする心理学の影響や、読んだものの忘れてしまっている雑多な読書の影響もあることだろう。そうしたなかで、自ずと現れてくるのが「当方」の個性であり、読んでくださる方は、結局のところ当方の「個性」に接することになるのかもしれない。そこで、まさに「環虚洞」だと感じてもらえたなら幸甚である。
「閑居堂」あらため「閑巨堂」あらため「環巨洞」あらため「環虚洞」
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2015-10-26
全知全能でない人間の見聞するところは、所詮、全体のうちのほんの一部である。それゆえ、そこから発せられる意見・等は、どんなにまっとうに見えても、偏見に過ぎない。偏見という言葉に含まれる否定的な感情を考慮するなら、誠実な偏見ということもできる。それゆえにまた、せめてどこまでも、誠実さだけは保ちたいと思う。
「群盲象をなでる」の言葉があるが、当該ブログに記されることも、それら盲人のひとりのたわごとにすぎない。それでも、たわごとには、たわごとなりの価値があると思いたい。