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“石松の名言”が世界をいやす? [写真記録ベトナム戦争]

NHK『知るを楽しむ』〈人生の歩き方〉に、

石川文洋さんが、《戦場を撮る 人間を撮る》というテーマで、4回出演した。その最終回を、昨晩見た。

(ザンネンながら、初回のほとんど、2回目、3回目を見落とした。)


戦争の悲惨さの認識の欠如が、戦争をいまだに繰り返させているという主旨の発言を石川さんは、されていた。


なるほど、そのとおりであろう。

戦争が悲惨なものであることを、一番よく知るのは、経験者・実体験者である。

実際に、そのような方のお話をお聞きすると・・・、
「もう、こりごりである」といい、戦争を、憎む。


戦争を知らない世代にとって、戦争の悲惨さを知るうえで、写真・映像の力は大きい。

それらを見て、イマジネーションを働かせるなら、実体験者のような気持になれるかもしれない。

「もう、こりごりである」と・・・。


そういう意味で、文洋さんのモノをはじめとして当時の(そして、最近の戦争の)映像を見ることはよい。

だが、人間のもつ想像力に希望をおきたいのはヤマヤマなのであるが、現実に、これまでの歴史の中で、ソレが有効に機能していないのも事実だ。現に、山のような戦争の映像が世界中にありながら、相変わらず戦争はヤマナイ。

と、なると、ヘンなハナシだが、戦争の悲惨さを知り、繰り返すのをやめるためには、戦争を実体験するのが一番手っ取り早いということになるのかもしらない。

人がナグラレルのを見るのと、実際に自分がナグラレルのとで、どちらが痛みを実感できるかといえば、自分がナグラレル方にきまっている。目をつぶっていても、ナグラレル痛みは、ワカル。


歴史の本など読むと、種々の理由から、「戦争やむなし」という状況にどんどんなっていき、ついには宣戦布告ということになるのだが、たいてい、「戦争やむなし」と言い、布告を出すような方たちは、戦場には出向かない。そして、ヤメルべき時を逸して、おおくの悲惨を増大させてきた。

「言いだしっぺ」とは、だいたいソンナモノなのであろう。


これからは、問題解決の手法として戦争をとりあげる「言いだしっぺ」から先ずまっさきに(次いで、ソレに同調する面々に)戦場に出向き、戦闘に参加していただくのはいいことのように思う。

実際に、戦場を設定すると、その土地が荒廃するので、(ソコで生活している大小の生物たちには申し訳ないが)沙漠のような(もとより)荒廃している土地を借り、(火器を使用すると、沙漠といえども、地球規模では温暖化を促進することになるので、その対価をきちんと支払ってもらったうえで)関係当事国・部族の〈戦争「言いだしっぺ」〉等等を集めて、バトルをしてもらう。

そのうち、痛い目にあって、戦争の悲惨さを実感した人は、やめるだろうし、ワカラナイ人は死ぬまでやるだろうし・・・

そうすると、戦争の好きな人間は、地上から、消えて、本当に平和な世の中がきて、メデタシ、メデタシということになる。

森の石松の「莫迦は死ななきゃ治らない」は、やはり名言ということなのだろう。


イマ、ダレカ、「ハルニナルトショウガネエヤ。バカハオマエダ」ト、イワナカッタ?

戦争中の暮しの記録

戦争中の暮しの記録

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 暮しの手帖社
  • 発売日: 1969/08
  • メディア: 単行本



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本田勝一氏によるあとがきから:『写真記録ベトナム戦争』 [写真記録ベトナム戦争]

『写真記録ベトナム戦争』に、

本田勝一氏が、石川氏の文章を引用しながら「ベトナムと石川文洋氏」というあとがきを寄せている。

その長いあとがきのなかから、石川氏が、ベトナムを撮影しながら“見たもの”がなにかを示す部分を引用してみよう。

それは石川氏が、どのようにベトナムとかかわるようになり、さらに深入りするようになったかを示す部分でもあるのだが・・・

****************

石川氏と話したり、あるいは彼の文章や写真をみたりしていると、世界史の流れを変えたこの戦争を取材するうちに、彼自身が次第に“目覚め、ことの本質に”せまってゆく過程がよくわかります。なんとなく世界一周するつもりだった石川氏が、ベトナムにふみとどまってしまうところなど、エドガー・スノーが中国革命の報道にかかわる動機とよく似ていて、なにか嬉しくなるような話です。そして、ベトナムにかかわって3年たらずのころ書かれた彼の文章の中に、たとえば次のような言葉をみるようになります。

「ベトナムの農民は、この戦争の大きな被害者である。しかし、政府軍に召集されて銃を持ち、戦いを強要されて、また自分も傷ついていく私のまわりの兵士たちを、農民を攻撃する加害者だといって憎む気にはなれなかった。むしろ彼らも被害者であると思った。“加害者はもっと大きなとっころにある”のだ。しかし、それらをフィルムに収めた場合、農民を拷問する政府軍であり、ニワトリを盗む政府軍であり、フィルムには加害者としての彼らの姿がとらえられる。あとでそうしてフィルムを整理しながら、どうしたら“戦争の底にあるもの”を表現できるだろうかとたびたび考えるときがあった」(石川文洋『ベトナム最前線』読売新聞社)

(“ ”は、閑居堂による)
****************

このような記述を読むと、撮影された写真に写っていない、写真の底にあるもの、撮影されていないものを汲みとるしかたで見ていかないと、実際には、写真家の“見たもの”を見ることができないのだと思う。

しかし、この写真集を見て、当方は、「ナンデ・・こんなことに?」と思った。それは、感じたことであり、また印象であり、自然に生起してきた疑問である。

写真を見て、見たということ、ソレだけに留まらせてはおかず、さらにナゼという問いを発せさせずはおかない仕事をされたということは、石川さんが、「戦争の底にあるもの」を表現したいと願ったことが、ちゃんと伝わったということなのではあるまいかと思う。

写真を撮影した写真家が、立ちどまって考えたように、写真を見た人間も、立ちどまって考えたということだ。

しかも、「なぜ」という問いかけは、立ちどまったままにさせておいてはくれない。さらに、先を考えるよううながすものともなる。


以下は、上記のことをも含めすべての事件・犯行に共通することだと思うのだが・・・

ある事件の加害者(犯人)を探せば、当然ダレであるかはワカル。血のついた包丁を手に呆然と立ち尽くしている男がいて、倒れている人がいて、その男が人を刺した現場を、多くの人が見ているなら、ソノ男がマチガイなく犯人だ。

しかし、その犯行に至った原因を、ずっと追いかけていくと・・・

犯行にいたった原因は、犯行に及んだ個人というより、その親のしつけの問題であったり、さらにはそのまた前の世代である祖父母の築いた家庭環境にあったり、さらには、彼らの帰属する地域の伝統や文化、特定の考え方、果ては、そこに醸し出されてきた空気などといった、個人をまったく離れたところにいってしまう。そうなると、重大な犯行に及んだ加害者とおぼしきものも、実は、あわれな被害者だったのだ・・ということになる。


あらゆる悪の究極の原因を、故・深沢七郎なら、なんのためらいもなく「それは悪魔ですね」と言うのだろうが・・・

こうした写真を見ると、(そして、同様のことが、現在も世界で生起し、続いていることを思うと)悪魔を単なる比喩としてのみ考えることはできないのではなかろうかと思う。

****************

こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ(た)

それゆえ、地と海にとってはわざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。

(ヨハネの黙示録12:9、12)

中国の赤い星〈上〉 (ちくま学芸文庫)

中国の赤い星〈上〉 (ちくま学芸文庫)

  • 作者: エドガー スノー
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 1995/04
  • メディア: 文庫



極東戦線―満州事変・上海事変から満州国まで

極東戦線―満州事変・上海事変から満州国まで

  • 作者: エドガー スノー
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 1987/12
  • メディア: 単行本



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大虐殺:『写真記録 ベトナム戦争』解説10 [写真記録ベトナム戦争]

石川文洋氏の『写真記録 ベトナム戦争』中の、
丸山静雄氏による解説を先回にひきつづき引用する。

標題は《10.カンボジア・中越紛争:大虐殺》

*****************

全土を解放したあと、ベトナムは戦後復興、南の社会主義化、南北を通しての社会主義経済の建設にとりかかった。いよいよ社会主義革命の完成を目ざしてのスタートである。

ところが旱魃と洪水がくり返し、自然災害は、これでもか、これでもかといったようにベトナムに襲いかかった。長期的、大規模な建設プロジェクトに必要とされた外国援助は期待通りに入ってこなかった。ベトナム和平協定の第21条はアメリカがベトナムとインドシナ全域の戦後再建に寄与することを定めたが、この責務をアメリカは果たそうとしなかった。援助の約束をしながら、言を左右にして約束を履行しようとしない国もあった。そこに追い討ちをかけるようにカンボジア、中国との紛争がおこり、少なからざるものが「難民」となって国外に脱出した。ベトナムにとって容易ならざる「国難」である。

「国難」とは、ベトナムの祖先たちが遠い昔、一致団結して戦った「北の大きな力」と再び対決しなければならなくなったことをいう。「北の大きな力」とは中国をさす。ベトナムは中国の漢字文化を受容することによって自らの文化を高めることができた。しかし中国文化は兵士と官人(役人)とともにやってくる。将軍と高級官僚は土着の社会秩序や伝統的な価値観を排除して、中国自身の制度や価値観を強制する。ベトナムの祖先たちは苦悩し、そうした苦悩の中から民族抵抗の精神を育くみ、それに拠って外国の侵略と干渉をはねのけて独立を守ってきた。ところが、その中国がまたもやベトナムの前に立ちはだかっている。

昔の中国は今の中国ではなく、今の中国は再生した革命中国である。その中国がカンボジアを支援して、ベトナムに噛みつかせようとしている。ベトナムにとってカンボジア問題とは中国問題にほかならない。中国の軍事的、経済的援助によってカンボジアは抵抗力を身につけ、主として、それによってベトナムに挑戦してきているからである。カンボジアで反ベトナム運動を展開しているのはポル・ポト勢力である。この勢力は住民に強制移動、強制労働、強制収容所生活を強い、その間、はかり知れないほどの人々を殺害した。ジェノサイドといわれるものである。そのポル・ポト派を革命中国が支援する。中越国境からする中国軍の侵攻と、カンボジアからするポル・ポト派の反ベトナム闘争とはベトナムにとって一つであった。それだけに「国難」は重大なのである。

ところが、こうしたベトナムの「国難」は意外にも外の世界で十分に理解されていない。理解してもらうには、どうしたらよいか。そこに問題の新たなむずかしさがある。国際化され、相互依存の進む現代の世界にあっては個人であろうと、国家であろうと、孤立しては存在しえない。思想と体制が同じであろうと、違う場合であろうと、その点は変りない。評価の歪みを改め、正しいベトナム像をいかにして形づくるかーそれはベトナムにとっての新しい課題であろうが、同時にわたしども自身の課題だとも思う。

写真記録ベトナム戦争 (1980年)

写真記録ベトナム戦争 (1980年)

  • 作者: 石川 文洋
  • 出版社/メーカー: すずさわ書店
  • 発売日: 1980/05
  • メディア: -



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解放と革命の意味:『写真記録 ベトナム戦争』解説9 [写真記録ベトナム戦争]

石川文洋氏の『写真記録 ベトナム戦争』中の、
丸山静雄氏による解説を先回にひきつづき引用する。

標題は《9.全土解放:解放と革命の意味》

****************

ベトナム戦争はベトナム民族にとっては民族解放(南の解放、南北の統一)、社会主義革命(北では社会主義建設、南での民族民主革命)の戦いであり、実に救国の戦いであったが、これを世界的規模で見れば、「アメリカの戦争」「世界的な政治戦争」(政治的な世界戦争)という側面があったと思う。

「アメリカの戦争」とは世界で最大の経済力と軍事力を持つとされる大国が展開した、おそらくは最後の大規模な植民主義戦争、帝国主義戦争と見なされた戦いをいう。また、ものの多いこと、大きいことに最高の価値があるとされた資本主義的価値観のもとで戦われる、おそらくは最後の戦争と見なされた戦いをいう。さらに空軍力を主体に機械力によって戦われ、相手国や第三国の立場をあまり顧慮しないで単刀直入におこなわれるという意味で、「現代の戦争」といえるものであった(アメリカの北爆、パレスチナ・ゲリラに対するイスラエル空軍機の報復活動、イスラエル対アラブ戦争)。

「世界的な政治戦争」と見なされるのは三つの理由による。一つはベトナムが、この戦争をベトナムを植民地化し、そこを拠点として東南アジアを支配しようとするアメリカ帝国主義に対する社会主義諸国全体の戦争だと規定し、広く社会主義諸国の支援を受けて戦いをつづけたこと、他方、アメリカがアメリカ的な民主主義と生活様式を守るためといい、あるいはドミノ理論(ベトナムが赤くなれば、日本を含む全アジアが赤くなる)を掲げ、全アジア的な規模で戦争に踏み込み、「参戦国軍」(韓国、タイ、フィリピン、オーストラリア、ニュージーランドの各種部隊)を動員するなど、単なる局地戦争ではなかったことである。

もう一つは、第三世界諸国の多くや資本主義諸国の少なからざるものが国をあげてベトナムの側に立ち、また資本主義諸国の内部でも進歩的、民主的な人たちが一様にベトナム激励に立ち上がるなど、幅広いベトナム支援があったことである。これはベトナム戦争がイデオロギー的抗争を含みつつも、それだけでなく、民族解放の正しいあり方を実証し(反植民地主義闘争と反封建主義闘争と社会主義革命の結合)、人間の尊厳、民族の尊厳といった根源的な価値観の尊さを示す戦いであったという共通の認識が世界各国にあったからであろう。ベトナム戦争が東西文明の対決であったといわれるのは、そのためであろう。

第三は国際政治、国際経済上の理由である。ニクソン大統領はベトナム戦争を収拾しあぐね、その処方箋を求めて北京に赴き、次いで訪ソした。超大国といえども、一国だけの力では世界の諸問題に対処しえなくなったわけで、ベトナム戦争は第2次大戦後の国際政治の構造を変えた。経済的にもドルの激しい流出によってアメリカ経済は危機的な様相を呈し、それを受けて西欧の通貨体制は根底から揺さぶられた。1976年8月の第5回非同盟諸国首脳会議は新しい国際経済秩序の樹立を求める宣言を発表したが、そうした流れをベトナム戦争はつくり出した。

ベトナム民族は、こうした三つの戦いに勝利した。民族の尊厳を世界に認めさせ、社会主義が帝国主義・植民地主義に打ち勝ったことを示し、大国中心の政治、経済構造と、その根底にある西欧的価値観に修正を迫ったのである。これがベトナム戦争の世界史的な意味といわれるものであろう。

南の解放を達成したあと、兵士たちは1号道路を意気揚々と北に引き揚げていった。長く、苦しい戦いは大きな勝利をもって終わり、いよいよ建設の戦いがはじまる。これからベトナムはどのようにして社会主義革命を完成し、正しい革命外交を展開するか、むしろ、そのことによってベトナム解放、ベトナム革命の現代史的な意義はきまってくるのではないだろうか。それを立派になしとげるであろうことを、わたしどもは期待している。
写真記録ベトナム戦争

写真記録ベトナム戦争

  • 作者: 石川 文洋
  • 出版社/メーカー: 金曜日
  • 発売日: 2000
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人民の海の中で:『写真記録ベトナム戦争』解説8 [写真記録ベトナム戦争]

石川文洋氏の『写真記録 ベトナム戦争』中の、
丸山静雄氏による解説を先回にひきつづき引用する。

標題は《8.解放区:人民の海の中で》

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解放区には南ベトナム臨時革命政府の完全な統制下にあるものと、その部分的な統制下にあるものとの二種類があった。前者の完全解放区はクアンチ省にあったが、それ以外にも北部、西部、南部諸省内に点々と存在していた。後者の部分的な統制下にある解放区には、サイゴン政府の支配地区内に飛び地の形で各地に散在するものと、「競合地区」内にあるものとがあった。

クアンチ省を除けば、解放区は一般的に境界線も定かでなく、また競合地区内におけるように時間によって解放勢力の支配下にはいるといったように不確定要素が多かった。アメリカとサイゴン政府側は、そうした曖昧な状態に自己の勢力圏をおくことは不安であったらしく、常に境界線を引き、溝を掘り、鉄条網をはって自己の存在を誇示しようとした。

解放勢力は境界をつくって敵味方を区別するのではなく、いつでも、どこにでも水のようにしみ込んでゆこうとした。人民の海の中で戦おうとしたのである。アメリカとサイゴン政府側は厳重な仕切りをつくり、人民を区別しようとした。したがって解放区は図上に表示できなかったし、解放勢力は、そうしたことをしようともしなかった。アメリカとサイゴン政府側はもっぱら図上に勢力圏を描き、形あるものにすがろうとした。解放区の考え方の中に、解放区の特色と、人民戦争の強みと、ベトナム民族の勝利の鍵とがあったようである。

しかし解放区における戦いは容易でなかった。解放区はベトナム解放の長く、苦しい戦いの中で最も困難な戦いの一つを勇敢に戦いぬいてきたのである。その一例がクアンチ省で、ここはまず民族分断の悲劇を一身に経験した。最初は1954年のジュネーブ協定で、同協定によってクアンチ省はベンハイ川を境に二分され、さらにベトナム戦争の過程ではクアンチ市街と、東南のチューホン県の一部、ハイラン県とをサイゴン政府側に奪われ、こうしてクアンチ省は三分されていた。

クアンチ省は、またゴ・ジン・ジェム政権時代からアメリカ軍の支配時代まで、最も長期にわたり、かつ大規模に村落の改編、住民の強制移動の行われた地域であった。戦略村計画、新生活村計画、地方再建計画、革命的開発計画、加速平定計画といわれるもので、村の伝統や村の成り立つ諸条件を無視して農民を固有の村落から政府の意のままに他の地点に移し、あるいは強制収容所に終結させていた。

アメリカ軍の基地づくりが始まると、数カ村を強制移動させ、そのあとをブルドーザーで一挙におしつぶし、一面の平坦地とした。8カ村をのみこんだアイツー基地がその好例である。ケサンの戦いでは、周辺の農民をことごとく住みついた山村から追い出し、ジオリン県では、「マクナマラ・ライン」(鉄条網を深くはりめぐらし、電流を通じ、また各種の電子機器をつけて解放勢力の進入を阻止しようとしたもの)を建設するために4つの村から全村民を閉め出した。

ベトナム戦争は史上最大の破壊戦争といわれたが、それを代表する68年のテト攻勢時のケサンの攻防戦、72年の春季攻勢をめぐる激闘はここで展開され、北爆、南爆もここに集中された。クアンチ省ではアメリカ軍の地上作戦と航空作戦(爆撃)と海上作戦(艦砲射撃)が併行しておこなわれた。西端の北フンハ、南フンハ両県には毒物(化学剤)や地雷が大量に投下され、戦いが終わったあとも農民は昔の村に直ちに帰ることができなかったという。

1974年10月、11月、ここを訪れとき、アメリカ軍に村を追われ、サイゴン政府軍に強制収容所にいれられ、サイゴン政府の警察官に数々のむごい拷問を加えられた人たちに会ったが、その人たちは、いまどのような思いで勝利の喜びをかみしめているのだろうか。

写真記録ベトナム戦争

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  • 作者: 石川 文洋
  • 出版社/メーカー: 金曜日
  • 発売日: 2000
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ベトナムに学ぶ:『写真記録ベトナム戦争』解説7 [写真記録ベトナム戦争]

石川文洋氏の『写真記録 ベトナム戦争』中の、
丸山静雄氏による解説を先回にひきつづき引用する。

標題は《7.北ベトナム:ベトナムに学ぶ》

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ベトナム戦争について、どれほどの本が世界中で書かれているか、正確な数は調べようがないが、大ざっぱな推定でも1000冊程度はあるのではないかと思う。

わたしは大体において、そのうちの250冊前後の本を読んだ。アメリカで刊行されたものが圧倒的に多く、フランスのものが、それに次いだ。日本人の書いたものは約50冊、また英語、フランス語から日本語に翻訳されたものも50冊ほどあった。本は軍事的なもの、政治・外交的なもの、歴史的・文化的なものに大別され、執筆者も作家・学者・ジャーナリスト、政治家・外交官、軍人と、ほとんどあらゆる分野と職業にわたっていた。これらの本を読むと、世界各国の人たちがベトナム戦争をどう見ていたか、その最大公約数の意見がわかるわけで、そうした意味で、わたしには大きな興味があった。

わたしは、これらの本を読んで三つのことを感じた。一つは世界各国の人たちのベトナム戦争に対する解釈、見解には大体においてコンセンサス(合意)ができていたということである。コンセンサスとは、アメリカの戦争政策は誤っており、アメリカは間違った戦争目的を間違った手段で追求していたと考える点で、ほとんどの人たちの意見が一致していたということをいう。

ベトナム戦争はテレビ時代の初の大きな戦争だった。テレビ時代の戦争とは戦争がブラウン管を通して一般家庭の茶の間に持ち込まれ、戦いの実体が民衆によって日夜見つめられるということで、そのためもあろうか、ベトナム戦争ほど世界のいたるところで激しく議論された戦争もないであろう。

ところが、これらの本を開いてみると、世界の人たちは、ほぼ同じことを考えていたことがわかる。ベトナム戦争については世界共通の認識があった。もちろん中にはアメリカの戦争政策を肯定するものもあったが、それは1000冊の中の数冊にすぎなかった。サイゴン政権については、これをまともに論ずる本すら、ほとんどなく、黙殺されていた。

ベトナム民族の戦いは、それほど広く、深く世界から共感をもって見られていた。国際世論から、これほど支持された戦争も少ないのではなかろうか。1975年4月30日のサイゴン解放は、世界の人たちの考えていたことが正しかったことを実証した画期的な勝利でもあった。

わたしが、これらの本を読んで感じたもう一つの点は労働党の指導が正しく、賢明で、適切であったということである。それは、いまはなきホー・チ・ミン主席の偉大さにもよるだろうし、ベトナム民族の卓越した資質と固い結束と強靭な意思とがあったからにもよろうが、何といっても、それらの中核にあって果たした労働党の役割が大きかったと思う。45年にわたってベトナムの革命と解放と統一の戦いを正しく導いてきた労働党の功績はホー・チ・ミン主席の名とともに消えることがないであろう。

わたしが第三に感じたことというか、いまなお忘れられない本の中の一節は、アメリカの女流作家マーサ・ゲルホーンが訪れたクイニョンの病院について書いたルポの中の「悲惨です。戦争孤児、戦災負傷者、結核患者、小児麻痺のびっこ、つんぼ、おし、めくら、ライ病の子供、養育できない難民の子供たち。男たちは戦争の真の悲惨さを理解していない。理解したくないのです」というくだりと、同じくアメリカの女流作家メアリー・マッカーシがベトナム南部を視察して「アメリカにとって最悪のことは、この戦いにアメリカが勝つことです」(アメリカは勝ってはならない)と述べているところと、同じくアメリカの女流作家スーザン・ソンタグがハノイを去る日にいった「北ベトナムの訪問以降は、その前よりも世界が一層大きなものに見えてきた」という一言である。わたしは、これらの本を読みながら、謙虚に自分がベトナムに深く学びつつあることを感じた。

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  • 作者: 石川 文洋
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共存と融和を願って:『写真記録ベトナム戦争』解説6 [写真記録ベトナム戦争]

石川文洋氏の『写真記録 ベトナム戦争』中の、
丸山静雄氏による解説を先回にひきつづき引用する。

標題は《6.ラオスとカンボジア:共存と融和を願って》

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ベトナムもカンボジアも、ラオスも、かつては平和で、のどかに、目を見はるほどに美しい国々だった。村にも町にも微笑みをたたえた人々が群れ、原色の花と緑の木々が山野をいろどり、その間に数々の貴重な文化的遺跡があった。しかし長い戦火の間に荒廃し、部分的には往時の面影をとどめながらも、全体としては見るかげもなくなったところが少なくない。都市部から農村部に目を移すと、戦禍はさらにいたましく、強烈な枯葉剤のため傷跡は容易に消えそうにもない。

戦争は、もう一つ、心の傷を深く刻んだ。人々の心を引き裂いてしまったのである。ベトナム南部では解放勢力と旧サイゴン政府軍、中部高原民族(少数民族)と平地民族(多数民族=ベトナム人)との間に、カンボジアでは解放勢力とシアヌーク派(王室派)、土着グループとカンボジア・クロム(コーチシナに定着していたカンボジア系種族。ロン・ノル将軍派を助けるためにカンボジア内に空輸され、カンボジア解放勢力と戦った)との間に、そしてカンボジアとベトナム、カンボジアとタイ、タイとラオス、タイとベトナムとの間に、それぞれ程度の違いこそあれ、ある種の違和感と対立の感情がつくり出されている。

これは戦争の副産物であり、アメリカの戦争政策によるところが大きかった。なぜならばアメリカはベトナム、カンボジア、ラオスのいずれでも少数種族を助け、訓練し、武装して多数種族と戦わせてきたからである。たとえばベトナムでは中部高原地帯の各種高原種族を、カンボジアではカンボジア・クロムを、ラオスではメオ族をそれぞれ支援し、ベトナム、カンボジア、ラオスの各解放勢力に対抗させてきたのである。

もともと山地民族(少数民族)と平地民族(多数民族)との間には伝統的な対立関係があった。少数民族は土地と職を奪われ、高地に追いやられ、蔑視、迫害されてきたという記憶が生ま生ましく残っていたからであろう。またカンボジア人とタイ人はインドシナの中原で覇を争い、ベトナム人とタイ人はメコン流域の肥沃な土地をめぐって古くから競いあってきた。百年に近いフランスのインドシナにおける植民地支配は、西欧の植民地支配のパターンを反映し、ベトナムとベトナム人を中心に、次いでカンボジア、最後部にラオスをおくという優先順位でおこなわれ、また一地域内でも多数民族を中心に考え、少数民族はほとんど無視して顧みなかった。そうした古い歴史にアメリカの民族分断の政策が新たに加えられたため、国の中で、あるいは国と国との間に冷たい緊張関係が存在するようになったのであろう。

カンボジアの東部地域でおきた虐殺事件は、そうした古く、そして新しい対立関係の爆発したものであろう。目をそむけたくなるような凄惨な民族の殺しあいー

しかし、戦争下にもビエンチャンではパテト・ラオの代表部が開設されていたし、パテト・ラオの兵士は政府軍兵士にまじって市場で買い物をしていた。政府軍の軍事顧問として残っていたフランス人将校の姿も見られた。ラオスとタイの間にはメコンの流れがあったが、両国の民衆はメコンを渡って自由に往来していた。ビエンチャンの台所を賄っていたのは、当時、朝早くメコンを渡って運んでくるタイ商人の穀物、肉、野菜であった。カンボジアとタイとの間も同じで、夕方になると、タイの主婦たちが籠をさげてカンボジア領内に買い物にきていた。

フランスがつくった国境線を越えて人々は混淆と共存の社会を見事に形つくっていた。戦火がおさまり、戦後の復興が進むとともに心の傷がいやされ、メコンの流れを中心に、この地域の人々が平和と友好の関係を一日も早く取りもどすことを願わずにはいられない。

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  • 作者: 石川 文洋
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ドルと砲爆弾を敵として:『写真記録ベトナム戦争』解説5 [写真記録ベトナム戦争]

石川文洋氏の『写真記録 ベトナム戦争』中の、
丸山静雄氏による解説を先回にひきつづき引用する。

標題は《5.燃えるサイゴン:ドルと砲爆弾を敵として》

****************
ベトナム戦争は平地部(農村地帯)、高原地帯(少数民族地区)、都市部の三つの戦場で戦われ、そのいずれにおいても多くのすさまじい激戦が展開された。

平地部では鉄の三角地帯、ケサイン、アシャウ渓谷、アンラオ谷、高原地帯ではバンメトー、プレイクー、コンツム、都市部では68年のテト攻勢時のサイゴン、チョロン、フエ、72年の春季攻勢時のクァンチなどの攻防戦が特に熾烈をきわめた。

これらの戦いは、いってみれば、アメリカのドルと砲爆弾との戦いだった。アメリカはサイゴン政府軍をつくりあげるとき、こんな計算をした。アメリカ軍の兵士1人あたりの1年間の平均経費(給与、生活費、被服費の合計)は4500ドルだが、アジア人兵士の1人あたりの1年間の平均経費は540ドルですむ。アジア人兵士をもってすれば、アメリカは8分の1の経費で戦争を賄える(1967年4月20日、上院外交委員会でのマクナマラ国防長官の証言)。つまりサイゴン政府軍とは、アメリカにとっては戦争をより安い費用で、より長くつづけるための手段だったのである。

サイゴン政府軍に期待されるのは、その肉体であり、したがってアメリカはサイゴン政府軍兵士の被服、装備(兵器、弾薬を含む)から、それらを運ぶ車両、舟艇、ヘリコプター、輸送機、さらに戦車、装甲車、戦闘機まで、サイゴン政府に提供した。いかに外国援助によって軍隊を組織するにしても、軍隊の給与ていどは自国政府の財政で賄うものである。サイゴン政府も一応、建前は政府の財政から将兵の給与を支出する形をとっていたが、実際には、その大半をアメリカのドル援助に依存していた。まさに典型的な外国の傭兵で、ベトナム民族の真の敵はアメリカのドルだったのである。

アメリカがベトナムに投下した爆弾量は1965年から1971年末までの6年間だけでも1300万トンに達した。これだけでも第2次大戦、朝鮮戦争で使われた爆弾量をはるかに上まわる(第2次大戦時の爆弾使用量は6102866トン、朝鮮戦争時の爆弾使用量は3111116トン)。

1972年5月、6月には1日延べ1000機の爆撃機が出動して北爆、南爆をおこなった。このとき空から投下された爆弾に地上からの砲撃を加えると、ベトナム全土に注ぎこまれた弾薬量は1日平均4000トンから5000トンに達した。広島型原爆は1発で129000人余りの人間を殺傷し、20平方キロを焦土にした。アメリカは広島型原爆を4日に1発ずつ落とし、1965年から71年末までだけでも実に650発の広島型原爆をベトナムに投下した勘定になる。

ベトナム民族は平地部、高原地帯、都市部の三方面で、このような砲爆弾と戦ったのである。それぞれの戦場は、戦場に固有の条件を持っており、そうした条件の中で苦しい戦いがおこなわれた。都市部の戦いは市街戦である。市街戦は、いわば建物のジャングルの中で戦われる。情報は不足し、いつ敵に遭遇するかわからない。そこでは大部隊の展開は困難であり、また銃砲撃も大きな制約を受ける。市民を戦闘に巻きこみたくないからである。したがって凄惨な、孤立した戦いが続く。的確な情報判断とチーム・ワーク、忍耐、勇気がここほど強く要請される戦いもあるまい。

市街戦では多数の市民が戦火の中に取り残され、少なからざる犠牲者が出る。それを見てアメリカとサイゴン政権側はいち早く解放勢力のテロによるものだと宣伝する。しかし、日時がたつにつれて、アメリカ軍の盲爆とサイゴン政府軍の破壊戦術で市民が犠牲になったことが明らかになってくる。いつも、そうだった。

1972年春のクァンチの攻防戦では実に86日間、死闘がくり返された。塹壕での対峙がつづき、胸まで水につかりながら解放戦士は戦ったという。

写真記録ベトナム戦争

写真記録ベトナム戦争

  • 作者: 石川 文洋
  • 出版社/メーカー: 金曜日
  • 発売日: 2000
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写真記録ベトナム戦争 (1980年)

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  • 作者: 石川 文洋
  • 出版社/メーカー: すずさわ書店
  • 発売日: 1980/05
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三つの顔:『写真記録ベトナム戦争』解説4 [写真記録ベトナム戦争]

石川文洋氏の『写真記録 ベトナム戦争』中の、
丸山静雄氏による解説を先回にひきつづき引用する。

《4.戦火の中の民衆:三つの顔》という標題がついている。

****************
ベトナムの人たちは10年、20年、30年の長きにわたって戦争の中を生きていた。10年とはアメリカの正規軍が直接、本格的に戦争に参加してからの歳月をいい、20年とはアメリカがドルとCIA(アメリカの中央情報局)を使い、フランスに代わってベトナムに介入してからの歳月をいい、30年とは8月革命(1945年8月)が起き、対仏戦争(1946年ー1954年)が勃発するあたりから以降の歳月をいう。

あるいは労働党が結成されてからベトナムの真の民族解放、社会主義革命の戦いが始まったという意味では40年余りがそのまま戦いの年月であったということもできるだろう。ベトナムの指導者たちはベトナム民族は4000年の歴史のうち2000年を戦ってきたという。ベトナムという国も民族も、そして、その一人一人が戦いの中に生まれ、戦いの中に生活し、戦いの中にその生涯の幕を閉じていたのである。

民衆の姿は昔も今も、そして東でも西でもほとんど変わらない。心は温かく、素直で、善意に満ち、家族とともに平和に、清く、心豊かに生活することをひたすらに願う。自然を恐れ、災害に泣き、不幸を悲しむ。おおむね権力者、支配者には従順で、争いをきらい、心から平穏無事を祈るーそれが民衆だったと思う。

ただし、これは一つの顔で、民衆は、もう一つの顔を持っていた。意外にしぶとく、逆境にも耐え忍んで、屈しない顔である。そうしなければ生きてゆけないからであるが、平和とおだやかさに徹したことが、そのようなたくましさ、ふてぶてしさを持たせていたのであろう。弱さに徹しての強さーそれが民衆の持つ強さのようであった。

解放勢力側に水と食糧と情報を提供していた農民がサイゴン政府軍の姿を見ると、急いでサイゴン政府の旗を出し、政府軍が去ると、サッと旗をおろす。壁に「米帝打倒」と書き、サイゴン政府軍の姿が近づくと、大急ぎで消し、去ると、同じ落書を再び壁に書きつける。アメリカ軍の爆撃で殺されたブタ、ニワトリを高い値段でサイゴン政府軍に売りつける。あの激しい戦闘の間にも民衆はアメリカ軍基地に出入りして結構、手びろく商売をおこなっていた。

ところが民衆は、もう一つの顔を持っていた。第三の顔である。静かな水の流れが一転して激流、洪水となって荒れ狂う姿である。そうなると、何ものも抑えることができなくなる。洪水は、あらゆるものを包みこみ、破壊し、おし流してしまう。民衆も同じだった。わたしは、それを8月革命の中に見た。民族が蓄えてきたエネルギーの爆発である。

何が、おだやかな川を奔流に変え、平和な民衆を総蜂起させたのか。決起しなければ民族が滅びるという絶対絶命の状況があったからであろう。いいかえれば帝国主義、植民地主義によって民族の生存が脅かされていたということだと思う。

脅威を与える最大の力はアメリカだった。ベトナム民族が、この30年戦った真の相手はアメリカだった。最初の敵はフランスだったが、そのフランスはアメリカの提供する飛行機とドルの援助に支えられて辛うじて戦いを続ける有様だった。ベトナム戦争になると、そのアメリカが正面の敵として登場した。長い独立闘争のあと、ベトナム民族は最後に、最大の敵と対決した。しかしベトナム民族はものの見事にアメリカに打ち勝った。勝利は民族の総蜂起によってもたらされたが、問題は何が総蜂起を可能としたかである。

わたしは第一に労働党の正しい指導をあげたい。アメリカとの戦いを民族解放、社会主義革命の一過程として戦い、人民戦争として戦った路線の正しさである。第二は民族が自然の災害と、度かさなる外国侵略によって鍛錬され、たくましく育っていることである。第三は第一と第二の条件が見事に一体化したことであろう。

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  • 作者: 石川 文洋
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虚構の権力構造:『写真記録ベトナム戦争』解説3 [写真記録ベトナム戦争]

先回につづいて・・・
石川文洋氏の『写真記録 ベトナム戦争』中の、
丸山静雄氏による解説を引用する。

《3.サイゴン政府軍:虚構の権力構造》という標題がついている。

****************

一般にサイゴン政権という場合には三つの意味がこめられていた。一つはフランス、アメリカなどの外国勢力によってつくられ、助けられて育った政権であったこと、もう一つはベトナム民族の悲願である民族統一の課題を否定し、ベトナムの分断を固定化することを目的とした政権であったこと、第三は、以上の二条件の必然的な結果として警察政治によって維持される政権であったことである。

警察政治とは膨大な軍事力と強力な警察力を背景にしておこなわれる強権政治を意味する。行政権というものは国民の生活を擁護し、国民に奉仕する側面と、国民の生活、行動に強制力を及ぼし、それをコントロールする側面との二つの権能を持っていたが、後者のために使われる強制力が軍事力と警察力であり、それによって推進されるのが警察政治である。歴代サイゴン政権の施策を見ると、前者の国民生活を守ろうとする機能はあまり発揮されないで、後者の国民をコントロールする機能だけが遺憾なく発揮されていた。

それは行政権が国民と国土の中に由来しないで、外国勢力によって上から与えられたものだからであろう。いきおい国民の利益よりも外国勢力の利益が優先する。他者を信用することができないので、閥族をもって政権を固める。権力の寡占体制で、それが長期化するに及んで権力と富をめぐって汚職がひろがり、内部抗争がくり返される。閥族は政治に介入するだけでなく、各種の事業にも手を出し、木炭、タイヤを買いしめ、不当に値段をつり上げておいて売りに出し、旅券の発給、滞在期間の延長、輸出入ライセンスの発給にも賄賂をとり、かくて得た巨利を、フランス、ブラジルに送って預金していたという。

かつてバーナード・フォール(アメリカのハーバード大学の元教授)は、「アメリカの援助が停止されたならば、サイゴン政権は、ものの10分と生きていられないだろう」といったことがあるが、この政権ほどアメリカ援助に依存した政権もないだろう。しかしアメリカ援助は援助を受ける国の自助自立を助けるのではなく、むしろ、ますますアメリカへの依存度を強めていた。コメの輸出国であった南ベトナムはアメリカ援助を受けるようになってから年間100万トンの食糧をアメリカの余剰農産物援助の中から供給されて台所を賄っていた。

警察政治にとって最大の脅威は言論の自由と民主主義の強化であろう。そこで言論抑圧が強行され、サイゴン政権の下では「政治犯」なるものが監獄に満ちあふれていた。「政治犯」といっても政府に批判的な考えを持つものまで含まれていた。グエン・バン・チュー政権時代には、少なく見積もって20万、30万のこうした「政治犯」が牢獄につながれ、拷問にかけられていた。

サイゴン政権の軍隊と警察は解放勢力を相手にして戦うためのものであったが、もう一つ、反政府運動や政府に批判的な分子を取り締り、監視する役割を持っていた。そのことによって独裁政権の温存をはかるという使命を与えられていた。それとともに実は軍隊、警察は若者にとっての唯一の就職の場でもあった。民衆を信用できないので政府は軍隊、警察力をふやす。徴募されるのは若者である。若者は貴重な労働源で、軍隊、警察力の拡大に反比例して労働力は減少、生産は低下し、工場は閉鎖される。新しい工場も建てられない。若者の働き場はなくなり、軍隊、警察におもむく。サイゴン政府軍の基地に行くと、家族が基地周辺で一緒に生活しているのが見える。警察政治が引きおこす悪循環である。

1946年6月1日、フランスによってサイゴンに樹立されたグエン・バン・チン政権から1975年4月30日、消滅したグエン・バン・チュー政権まで、29年にわたるサイゴン政権の系譜は独裁政権、従属政権、傀儡政権でつづられ、虚構の政権の持つ実体をあますところなく示していた。

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伝統社会の破壊:『写真記録ベトナム戦争』解説2 [写真記録ベトナム戦争]

先回につづいて石川文洋氏の『写真記録 ベトナム戦争』中の、

丸山静雄氏による解説を引用する。

《2.ある村の「作戦」:伝統社会の破壊》という標題がついている。

**************

「ベトコン」がいた、という情報が入ると、アメリカ軍の基地は、にわかにざわめき、出動準備がはじまる。部隊はあわただしく武装をととのえ、ヘリコプターにのって「ベトコン」が隠れているといわれる部落に飛ぶ。

目ざす部落に近づくと、ヘリコプターは低空飛行をつづけ、十分に警戒しながら、やや離れた地点に部隊をおろす。そのころにはガンシップといわれる武装ヘリコプターの別動隊や戦車、火砲陣が到着し、空と地上から猛然と銃撃、砲撃を加える。時には爆撃機が飛来して爆弾を投下し、あるいは海岸に近いところでは艦砲射撃がおこなわれる。

その間をヘリコプターから降り立った地上部隊が「ベトコン」が潜伏していると思われる地点に接近する。砲爆撃で、さんざんにいためつけられた部落をさらに火炎放射器で容赦なく焼き払い、一軒一軒、家の中をしらみ潰しに探し、よほどの老人でない限り、男を見ると、「ベトコン」だといって有無をいわさず手足をしばりあげる。泣いて、とりすがる家族のものを蹴とばし、逃げようとすると、殴打し、あるいは銃を発射する。家の中から穀物、油、果物、野菜を見つけ出し、「ベトコン」に流れるといって焼くか、水田や川に投げすててしまう。部落周辺の森は「ベトコン」が潜伏場所に利用するからといって枯葉剤を散布し、水田の稲も焼き払う。あらゆるものを破壊し、焼き、棄てて、あとには何物も残さない。

1968年3月16日、クァンガイ省のソンミ村をアメリカ軍が徹底的に破壊し、村民500人を虐殺したとき(ソンミ事件)、アメリカ軍はソンミ村の上空を4段階に仕切って各種航空機を飛ばせた。1000フィート以下の低空にはガンシップ、これは部落から脱出しようとする「ベトコン」を射殺するため。1000フィートには機動部隊の司令官機、これは戦闘指揮に当たるため。2000フィートには師団長機、これは戦闘を監視するため。2500フィートには旅団長機、これは観戦のためである。これでは蟻のはい出る隙もないだろうし、それよりも戦争をスポーツのゲームとでも思っているらしいアメリカ軍の冷酷きわまる作戦ぶりに、わたしどもは、いいようのない怒りを感ずるのである。

かくて「ベトコン」の大部隊が集結し、「ベトコン」の一大拠点であったかのように騒ぎたてた「大作戦」の結果、焼き払われた部落から出てくるのは、多くの場合、せいぜい十数人か数十人の老人、主婦、子供だけ。目ざす「ベトコン」なるものの姿は一人も見えない。引き出された老人、主婦、子供たちは強引にトラック、ヘリコプターにのせられ、後方に運ばれ、「難民収容所」に入れられる。遠く祖先の時代から住みなれた土地への愛着が強く、泣いて郷里から離れまいとする農民をアメリカ軍、サイゴン政府軍兵士は強制的に連行する。かくて郷里は荒廃に帰し、後方に「難民部落」だけがふえてゆく。アメリカ側のいう「難民」とは、実はアメリカ軍がつくり出していたのである。これが「索敵撃滅作戦」「平定計画」なるものの実体であった。

アメリカはベトナム南部に多数の基地を建設したが、アメリカ軍の1つの基地をつくるためんは大体において5,6ヵ村ないし7,8ヵ村がブルドーザーで一挙に平坦地とされた。村の大事な入口も、丘と祖先の墓も、住みなれた家も田畑も地響き立てて走るブルドーザーの車輪の下にひとたまりもなくおし潰された。

ベトナムの村落は、古来、「王法の権威も垣根の前でとまる」といわれるほど、かなり高度の自治を享有していた。この村落が基盤となってベトナムの社会は成り立っていた。ところがアメリカ軍の作戦は、村落を抹殺し、村落を基盤とした伝統社会の秩序を根底から破壊しようとしていたようである。


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アメリカの戦争:『写真記録ベトナム戦争』解説1 [写真記録ベトナム戦争]

以下は、石川文洋氏の『写真記録ベトナム戦争』の解説部分からの引用で、筆者は丸山静雄氏による。

《1.南ベトナムのアメリカ兵》という部分の解説で、題は『アメリカの戦争』となっている。

****************

アメリカは1965年、66年、戦争をエスカレートし、大軍を続々とベトナム南部に送り込んでいたが、サイゴンに上陸したアメリカ兵は真っ先に30ページほどの小冊子を渡された。

小冊子には、「これは新しい種類の戦争である」という標題の下に、「われわれは南ベトナムの民衆と政府を助けるためにやってきた。全東南アジアを共産主義の侵略と弾圧から救うのを助けるために来たのである。それによって、われわれはアメリカ自身の安全保障を強めることになる。この使命はベトナム民衆の支持なしには達成されない。民衆の支持をかちとるためにおこなうことは戦争に勝利することに役立つであろう。民衆を遠ざけるようなことは、われわれの戦争努力を弱めることになるだけであろう。われわれは新しい種類の戦争を戦っているのである」と書かれてあった。

一人一人の兵士は、この小冊子を持って戦場に出た。しかし前線に出たアメリカ兵はいずれも小冊子とは、まさしく正反対の戦いを戦っていた。たとえば民家、学校、病院、工場、水利施設などの非軍事施設を破壊し、子供、婦人、老人、患者などの非戦闘員を仮借なく殺傷し、村落と都市と、それらを結ぶ交通、通信線を徹底的に爆撃した。また枯葉剤で耕作物、並木、森林を焼き払い、機雷を河川、水路、運河、海岸地帯に投下、敷設し、正常な生産活動、通商活動すら一切できないようにしようとした。

ベトナムの国土は南北ベトナムを合わせてもアメリカの28分の1、人口は5分の1に過ぎない。そこにアメリカはピーク時に50余万の歩兵を派遣し(全歩兵の80%、派遣兵力の延べ数は260万)、1400機の戦術戦闘機(戦術空軍総力の32%)、250機のB52戦略爆撃機(戦略爆撃機総数の40%)140隻の軍艦(海軍総力の58%)9隻の空母(原子力空母エンタープライズを含む)を投入した。アメリカの持つ空海軍力の約3分の1が北ベトナム攻撃に充当され、全ベトナムに振り向けられた軍事力はアメリカの第一線戦力のほとんどすべてに近かった。

しかも最新鋭の兵器、爆弾が開発され、パイナップル爆弾1個は半径300メートルの地域に36万個の鉄の小球をまきちらした。テレビ・カメラやレーザー光線で誘導されるスマート爆弾は60センチないし1メートル程度の目標物すら破壊することができたという。破壊力の強化と命中精度の向上によって、まさに史上最大の破壊戦争が展開されたのである。

しかしアメリカは56555人の戦死者と、303654人の負傷者を出し、1400億ドルの戦費を使いはたして敗れた(サイゴン政府軍の戦死者は241000人)。その最後は、われ先にとヘリコプターに飛びのり、あわただしくサイゴンから逃げ去るという惨憺たるものだった。

「新しい戦争」を戦うのだといいながら、最も古い戦争を戦ったところに敗因があった。民衆のために戦うのだといいながら、民衆を敵とし、民衆の権利を否定したことの当然の帰結だった。アメリカはアメリカ国民に対しては、この戦争はアメリカ的生活様式を守るための戦いであるなどと、20余項目をあげて説明し、戦争の正当化を試みたが、実は典型的な帝国主義的、植民地主義的戦争であった。

この帝国主義的、植民地主義的戦争をアメリカは、力を持つものは何でもできる、何をしてもよい、力は正義であるという力の論理に立って戦い、どのような民族であれ、民族には自ら独立し、主権を確立し、独立と主権を主張する権利があるという民族権を否定しようとした。ベトナムは、この民族権を高らかに掲げて戦い、遂に勝利した。そうした意味でこそ、これは新しい戦争だったのである。

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