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人と出会う・・とは?(奈良橋 陽子さんの講演から) [講演会]

昨晩、NHKラジオの文化講演会を聞いた。

講演したのは奈良橋 陽子さん。肩書きはキャスティング・ディレクターで、日本人俳優を、ハリウッドに斡旋する業務に携わっている。先ごろ亡くなった今井 雅之らを、短期間の指導で英語を使えるように助け、アメリカでの舞台を踏ませたりもしてきた。

当該ブログの過去記事
 2:聴くこと(「戦後70年夏 俳優今井雅之の遺言」から) 
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2015-07-07


印象に残ったのは、講演の終わりに、聴衆にさせていた伝言ゲーム。最初の試みで、「美しい」という言葉が、伝言の終わりには「トイレ」になってしまい。皆して笑っていたのだが、奈良橋さんは、聴衆に、再度、試みさせる。

その際、今度は条件をつけた。伝言しようとする相手を見、なにかしらの印象を見い出そうと努めた上で、伝言するようにと仕向ける。そうすると、アッと驚くような思いをトナリの人から受けたりもするが、人と人とのコミュニケーションとは、本来、そのようなもので、ただ言葉のやり取りだけではなく、そのようなものこそ出会いであって、出会いが生じると、互いに温かいものを共有できる・・という“ような”話であった。(2/27(土)の午前6時から、ラジオ第二で再放送があるので、関心ある方はどうぞ http://www.nhk.or.jp/r2bunka/bunka/1602.html


そんな話を、車中聞きながら、夜遅くに帰宅し、一夜明けて、昨日見そびれた新聞を見た。そこには、ホームレスの人たちを援助している牧師(奥田知志さん)の話が特集されていた(『毎日新聞』2/21〈路上の人に「ホーム」を 四半世紀 牧師の取り組み〉)。

「出会い」について記されている部分を以下に引用してみる。

(’90年)北九州市にできたホームレス支援団体の事務局長を引き受けると、路上の人々を訪ね、たどってきた人生を尋ねて細かに記録し、一人一人を知ろうと努力した。それは釜ケ崎時代の反省という。

あいりん地区を離れる時、お別れのあいさつに行こうとして、支援団体の人しか思い浮かばなかった。ホームレスの世話をしたり、病気になった日雇い労働者のお見舞いに行ったりしたのに、彼ら、彼女らの名前を知らない自分にがくぜんとした。 「人と出会えていなかった。釜ケ崎の問題に関わったと言ってるけれど、理屈だけで中身がない。僕の前に『人』がいなかった」と感じた。

中略

「出会ったことにおいて私たちには責任が生じるのであり、このたまらなさを身に負うのだと思う。もし、私たちがその責任を感じない活動にとどまるなら、単なるお遊びで終わってしまう」 人と出会い、経歴や話を聞けば、その人のことが記憶に残り、自分の中に住み始める。奥田さんは、「出会った責任」をそう説明し、「だから、うまくいってもいかなくても、今日の出会いに意味を見いださないといけない」と話した。

そんなわけで、奈良橋さんの講演と新聞記事との「めぐり合わせ」から、「出会い」について考えている・・

*********

23日追記:奥田知志さんは、茂木健一郎との共著を出している。また、『シールズ』メンバーの奥田愛基の父親であるということだ。


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御厨貴東大教授から明治の話を聞いてきた [講演会]

TBS『時事放談』の司会をされている御厨貴(東京大学)教授の講演を聴いてきた。
http://www.tbs.co.jp/jijihoudan/cast/index-j.html

高校教科書に、「明治」と言えば必ずでてくる「富国強兵」・「殖産興業」に注目した話。

全体を詳述しては、教授の営業妨害となるので、当方がオモシロく感じた点だけ記してみる。

〈以下、講演中メモしたものに基づいて記すもので、(・・)で括ったところは当方のツブヤキのようなものです。その点、ご了承くださいませ)


教授の専門は「近代政治史」だが、明治時代の研究を、その10年代から始めたという。なぜなら、それまでの期間(明治0年代)は、政府としての体(てい)をなしていない状況のなか、その人員の半数が欧米視察のためにでかけてしまうなどなど・・ナゾ(「不思議」)がたいへん多いからだそうである

維新は成ったものの、未だ実質的に政府の体(てい)をなさない政府によって、廃藩置県がなされ、太政官制度が設けられ、それはやがて内閣制となり、選挙制度、憲法の制定など、ぞくぞくと政治は動いていく。

それらの背後にあったモノは、ほとんど強迫神経症にちかいようなもので、西洋諸国(ヨーロッパ)の目にどう映るかを気にしていたからであり、西洋諸国の目に、良い評価を得なければ、欧米列強との間で結んだ不平等条約の改正が成らないからである。

(明治の社交場「鹿鳴館」の建設について、欧米の目を意識し心配する当時の政府の意向があったことは当方も聞いてはいたが、明治村に今でも残る洋風建築をはじめ、その他諸制度等の整備が、帝国主義の弱肉強食の時代にあって、強面を演出するため、いわば虚勢を張ることによって成立していったことを知ることができた。地盤の軟弱な政府によってソレができたのは、旧体制の未だ根強い残存勢力をもふくめ皆が、欧米列強によって「極東」「ジパング」と呼ばれてきた自分たちの島国が植民地と化されることへの危機感を、意識の強弱はあるにしろ、共有していたからではないだろうか・・・。欧米列強の脅威・外圧によって、それまで「烏合の衆」とまでは言えないにしろ、海によって行く手を阻まれ同じ島に留められ閉じ込められていた諸藩の寄り合いにすぎない面々が、はじめて「国家」というものを意識するようになり、さらには欧米列強に匹敵する「国家」と見做しうるものを皆で早急につくらねばならぬとの強迫観念を抱いたからであるように思える・・・)

陸奥宗光はイギリスで、「イギリスの政党政治はどれくらいの期間をかけて作り上げられたものか」を尋ね、「200年」との回答を得て、ソレを20年でやるという気概をもって帰国したというような話もなされた。

そうした、国家としての体裁を整えるための一連の政治的な動きは、欧米列強への危機意識から出ていた。ところが、その意識が変化するのが、日清・日露戦争における勝利であり、特にクリティカルポイントとなったのは日露戦争でのロシアに対する勝利である。「それまで、こわくてこわくて付ける薬もなかった」ロシアに勝ったことで、欧米列強への危機意識、脅威の念は払いのけられていく。

そのような意識の変化について、度を過ぎるとたいへんなことになると警鐘を鳴らしたのが陸奥宗光である・・・

***********

教授は、自然な身振りをもちいて、たいへんわかりやすい話をしてくださった。講演後、質問する機会を得たので、そのことは次回に


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7(最終)回:高村薫講演会「近代の終わりを生きる」  [講演会]

「近代の終わりを生きる」 高村薫 

2013年 3月23日(土) 第295回オムロン文化フォーラム講演から


さてそのために求められるのが教育であります。政府は、道徳教育に熱心でありますけども、今必要なのは学力の方です。ただでさえ少子化で子どもの数が減っているのに、勉強についていけない落ちこぼれを出すのは、まさに、国の損失というものであります。

GDPに占める教育の公的支出の割合が日本はOECD加盟国の中でも低いことが時々話題になりますけども、日本の義務教育については、地方自治体の裁量に任せる部分を減らして、それこそ子どもの教育は国が責任を持つという国家の意志をはっきりさせるのが先決だと私は思っております。地方自治体の首長が時々に教育方針にまで恣意的に関与してくるようなことがあってはならないからであります。

高等教育については確かに日本はもっと予算をつぎ込む必要があると思いますけども、これも大学教育の質の低下を 改善する方が先で、そのためにも義務教育から徹底的に底上げを図っていかなければならないと思います。また、国の未来は子どもにかかっていると思えば、教育だけは完全な機会平等を保証しなければならない。

で、最新の世論調査では、親の収入による教育格差を6割が是認しているという数字が出ておりますが、教育格差を認めてしまいますと、安定成長に必要な分厚い中間層を回復することができません。これは、物事を単体で考えてはならないという一例であります。この国を衰退から救うためには、全体の底上げが絶対に不可欠なのです。親の収入で子どもの教育に差がつくようなことはあってはなりません。

ところで、具体的には、とにかく教師の数を増やすこと、教師自体の質を上げることに尽きると思いますけども、ともあれ教育にこそ税金を惜しみなくつぎ込むべきだと思っております。「繁栄の終わりの始まり」を迎えた国が、この先生き延びていくためには、それしか方法が無いのではないかと思います。

で、そして大人たちは、工場労働者も農業従事者もホワイトカラーも、一人一人が高い生産性を持たないと、生活はもちろん公共サービスや医療やインフラを維持するだけの稼ぎを生み出せない。それがこれからの経済環境であります。高い経済成長の時代は終わっても、ゼロ成長やマイナス成長では道路や水道管などの社会インフラの維持管理もできません。だからこそ、なんとかして日々の暮らしを維持するだけの生産を続けなければならない。

そしてそのために私たち日本人はもはや誰一人として漫然と生きていられる余裕はナイというわけであります。私たちは失われた20年の間に、過去の繁栄のストックを使い果たしただけではなくて、1000兆円の借金まで重ねているわけですから、まさにキリギリスをやっている余裕はナイのであります。これは文字通り厳しい生き方と言えるかもしれません。厳しいというのを具体的に言えば、一人一人が能力を問われるキビシサであり、そのために新聞を読んだり勉強をしたりしなければならないキビシサであり、いい加減なところで投げ出したい欲求を抑えて思慮深くなければならないキビシサであり、そしてもちろん、生活の現場では増税や社会福祉の増額、年金支給額の減額などで生活がキツクなることのキビシサでもあります。「繁栄の終わりの始まり」を迎えた国で、あきらめることなく前向きに生きるというのは、まさに私たち一人一人が自覚的にキビシイ人生を生きるということなのだと、そういうふうに思います。

さて、「繁栄の終わりの始まり」をどう生きるかについて、第一に「多数意見に流されないこと」、第二に「一つ一つの問題を単体で捉えないこと」、そして第三に「一人一人が『働き者』になること」の三つを述べさせていただきました。

そこにもう一つ付け加えたいのは、「すぐに結論を出さないこと」であります。「すぐに答えを求めないこと」と言い換えてもかまいません。誰にも確実な未来が見えないときに、何か答えが欲しい気持ちはよくわかりますが、確かな答えは無いからこそ、未来が見えないのであります。そんな時に明快な答えを出す人がいたら、それは神様しかいません。今の世の中で明快な物言いをする人、簡潔な答えを呈示する人、物事を簡潔に言い切る人、こうすればイイと断言してくれる人、より良く生きたければ、どれも信じないことであります。

答えを出してしまいますと、それ以上モノを考えることをしなくなりますし、情報の収集もやめてしまうことになります。先の見えない不安定な時代には、これほど危険なことはありません。むしろ答えを留保して、常に情報を集め、さまざまな意見を聞き、自身もあれこれ考えながら、右でも左でも行けるような柔軟な姿勢でいるのが一番安全なのであります。

えー、さて、「多数意見に流されないこと」、「問題を単体で捉えないこと」、「『働き者』になること」、「すぐに答えを出さないこと」。この四つの生き方を支えるものが「言語能力」であります。早い話が、ものを考え、まとめて、道筋をつけていく言葉の力です。

この言語能力がこの20年の間に、急速に衰えたことを、小説家はだれよりも実感しておりますが、これこそひょっとしたら経済の衰退以上の日本人の存在の危機かもしれません。

ちなみに、今年のセンター試験の国語では、長文読解の小林秀雄の文章が受験生に難しすぎて、平均点が下がったということでありました。あの「ツバ(鍔)」という文章をお読みになった方はおられるでしょうか。アレは、ま、同業者と言うのもおこがましいですけども、小説家の私から見ても、かなりどうでもいい文章であります。で、難解というよりかは、論理的な構成ができていないので読みにくいわけですが、こういう文章を出題する国語の専門家の言語能力からして相当に危ういというふうに感じました。

あんな文章を読まされた受験生も気の毒ですけども、この出題にどこからも異議が唱えられなかったということも含めて、センター試験のこの現状は、冷静に眺めれば、まさに日本人の言語能力の低下、もしくは混乱というべきものだと思います。今求められる言語能力というのは、複雑なものを論理的に整理して把握したり、提示したりする言葉の能力ですから、小林秀雄のアノ文章は、その逆なのであります。

えー、ともあれ、先ほど教育への投資が第一だと申しましたけど、それはまさに衰えた言語能力をなんとかして取り戻すためであります。

クールジャパンは文化としてはおおいにけっこうですけども、複雑な社会の仕組みや、多国家のパワーバランスをきちんと理解し、操っていくのはすべて言葉であることを、これからの日本で生きていく子供たちに叩き込まなければならない。それが私たち大人のつとめだと思うしだいであります。

どうもご清聴ありがとうございました。


作家的時評集2000-2007 (朝日文庫 た 51-1)

作家的時評集2000-2007 (朝日文庫 た 51-1)

  • 作者: 高村 薫
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞社
  • 発売日: 2007/10/10
  • メディア: 文庫



高村薫・藤原健 作家と新聞記者の対話

高村薫・藤原健 作家と新聞記者の対話

  • 作者: 高村 薫
  • 出版社/メーカー: 毎日新聞社
  • 発売日: 2010/01/29
  • メディア: 単行本



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6:高村薫講演会「近代の終わりを生きる」 [講演会]

「近代の終わりを生きる」 高村薫 

2013年 3月23日(土) 第295回オムロン文化フォーラム講演から

こういう歴史認識の問題は私は苦手なんですけども、どうしても今の時代避けて通れない事柄ですので、もう少し触れさせてください。日本の学校では、歴史は明治維新でほとんど終わってしまうんですけども、戦後生まれの私の世代を含めて日本人が近現代史を学ばないまま世界に出ていくことが続いているのは大きな不幸だと思います。だいたいのことは知っているという方は多いけれども、近現代史を学ぶときに、何年に何があった、何年に何が起ったということを学ぶのが大事なのではありません。それよりも、日本は先の大戦で世界と戦争をして負けたわけですから、世界の中で日本の大陸進出がどう位置づけられているか、世界の中で日本のアジア侵略がどう位置づけられているか、世界の中で日本の敗戦がどう位置づけられているか、それらを相対的に客観的に学ぶことが大事なわけです。それがまさに戦争に負けるということであります。日本のアジア進出が西欧列強の植民地からの開放を目指したものであったとか、あるいは、植民地にした朝鮮半島や台湾で近代化に寄与したとか、それは日本の側から見た一方的な理屈でありまして、世界においてはまったく意味をなしません。近現代史を学ぶというのは、極論すればそういうことを学ぶことだと言ってもいいと思います。この点に関する限り、日本人の誇りはどうだとか、子供が誇れる日本を取り戻すといった一部の政治家の持論は聞くに値しないものだと思っております。日本人の誇りというのであれば、たとえば戦後68年、日本は先進国で唯一武力行使と無縁であったことを誇れば良いと思います。歴史認識を蒸し返す中国や韓国に対しても、かくも長きにわたって一度も人間に向かって発砲したことがないことこそ戦争を反省しているなによりの証拠ではないかと反論すれば良い、もっとも集団的自衛権を行使していないだけであって、日米同盟に寄りかかって平和を維持している立場としては、なかなか歯切れが悪いという、まあ、現実もありますけども、それでも日本が軍国主義だと言われる筋合はナイはずです。

ともあれ、歴史を眺める視座がずれているために、たとえば従軍慰安婦問題についても的ハズレな反論しかできない政治家の発言がどれほど国益を損ねていることか。

ところで、何が国益になるかという判断も、それこそ物事を単体で捉えていてはできません。たとえばTPPの是非も、単にGDPをどのぐらい押し上げるか、どのぐらい押し下げるか、といった数字で決められるものではありません。TPPで俎上に載せられるあらゆる分野の未来を幅広く眺めるだけでなく、そもそもアメリカがこれに乗り出してきた戦略的な理由や、あるいは、参加各国とこれからどのような関係を結んでゆくのかなど、そういう未来像、さらには韓国や中国の出方次第でこの貿易圏の将来がどうなっていくのか、見通しなどなど考慮に入れるべき事柄はたくさんあります。それらをすべて考慮した上で、やっと日本にとってメリットがあるのかないのかという判断ができる、そういう非常に難しい問題のはずであります。

こうして考えてみますと「強い日本を取り戻す」とまあ豪語する首相が依って立っているのは、たかが個人の思い入れにすぎない、根拠のない危うい希望ではないかという気がしてくるんですけれども、それに賛同する有権者が7割という数字を見ますと、この危うい希望というのは結局、幅広く国民のモノなのかなあと考え込んでしまうこともあります。

で、私は今この難しい時代をどう生きるかということに関して、一つ「多数の声に流されてはならないということ」と、二つ「一つ一つの問題を単体で考えてはならないということ」をお話いたしました。では、三つ目は、これまでのように9時から5時まで、とにかく仕事をしていたら、それで人生が回っていくという頭ではこれからの時代は、たぶん生きていけないだろうという話であります。日本人はむかしから働き者だと言われてきましたけども、実際の生産性という意味では、疑問符が付きます。2010年度の労働生産性の国際比較の数字を見てみますと、日本の就業者一人あたりの労働生産性、すなわち名目付加価値の額はOECD加盟34ヶ国中20位、先進7ヶ国中で最下位であります。製造業の労働生産性は主要21ヶ国中10位ですけども、アメリカの生産性の63%しかありません。これが自称モノづくり大国日本の労働者の現実であります。特に、製造業で労働生産性が低下しているのは、熟練した技術を持たない非正規雇用の増加と呼応しておりますし、労働人口の減り方よりも、生産額の減り方の方が大きい、すなわち、製造業の衰退と呼応しているわけですが、こうして改めて数字で確認しますと、私たちの置かれている状況のキビシサがいよいよ身に沁みてまいります。

で、さて日本人の労働の質が必ずしも高くはないという事実を前に私はいくつか思うことがあります。今の若い方はご存知ないと思いますけども、80年代に「24時間働けますか」という滋養強壮剤のコマーシャルがありました。で、70年代には「モーレツ社員」という流行語もありました。そして、経済も順調に成長を続けていましたので、当時の私たちは、なんとなく日本人は働き者だ、働きすぎなくらいだというイメージだけを持ってしまったのかもしれません。ところが、私が社会人になって、いわゆる企業社会の実態に触れるようになっと時に、アレッと思うことがたびたびありました。つまり、日本人はほんとに働き者なのかという根本的な疑問をチラリチラリと感じたのであります。これはたまたま私が働いていた外資系の企業と比べていたからかもしれませんけれども、どういうところでそう感じたかと申しますと、その時、私が見てたのはホワイトカラーですが、その仕事の仕方全般がユルイ、もしくは、非効率に思えました。夜遅くまで働いているイメージがありましたが、実際には時間の使い方にムダが多かったり、「接待」と称して夜遅くまで飲んでいたり、もちろん数多の大企業には優秀な高い能力をもった人も大勢いたと思いますけれども、平均的なサラリーマンの姿は決して働き者ではなかったように思います。むしろ日本の労働者は終身雇用と年功序列に守られて、ひとりひとりの能力や実績がきびしく問われるということが無かったのではないか、個々の実績が問われないような、実にユルイ、ある意味「天国のようなぬるま湯」が日本の企業社会だったのではないかと思います。で、もちろん、個々の能力や実績を問わない護送船団でも一定程度の経済成長が確保できていたのですから、逆に、経済成長期の日本がいかに稼いでいたかということですけども、おかげで日本の企業社会は次世代を見越して爪を研ぐということをせずに、今日までやってきて、そして今、こうして競争力を失っているのであります。

でもこのままでいいわけはナイのであって、私たちはいよいよ自分たちの足下から見直さなければならない時が来ております。端的に、一人一人がもっと働き者にならなければならないということであります。働き者というのは、長時間働くということではありません。労働生産性を上げる、すなわち付加価値の高い働き方をするということです。そのためには、もちろん企業も非正規雇用の単純労働に依存して利益を上げるようなやり方をしていてはなりません。実際これからは単純労働が求められるような製造業は海外へ出ていく他はないので、国内には付加価値を生み出せる仕事しか残りません。一人一人がそういう付加価値のある仕事を担う労働者になっていく必要があるんですけども・・・


高村薫・藤原健 作家と新聞記者の対話

高村薫・藤原健 作家と新聞記者の対話

  • 作者: 高村 薫
  • 出版社/メーカー: 毎日新聞社
  • 発売日: 2010/01/29
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5:高村薫講演会「近代の終わりを生きる」 [講演会]

「近代の終わりを生きる」 高村薫 

2013年 3月23日(土) 第295回オムロン文化フォーラム講演から

では、そうなった時に私たちは民主主義のルールで決まったことだからと諦めてため息をつくしかないんでしょうか。結論から言えば、そうではないと思います。大きな決定的な変化が起きようとしているときに私たちはやはり黙っていてはならないだろうし、意思表示をしなければなりません。多数決で決まったことではあっても、最後の最後には反対の意思表示は必要であろうと思います。なぜなら、まさに民主主義の多数決のルールそのものが万全ではナイからであります。で、それに代わるルールは今のところまだ発見はされておりませんけども、結果が、自身の信念に反するのであれば、とりあえず反対の声だけは、あげておかなければならないと思います。それをしないとどうなるか、まさに「時代に流される」ということになります。多数の声に流された結果が幸福なものにならないのは、それこそ生きるためのカンというヤツは個々人の感覚の上でしか働かないから であります。生きるためのカンが働かない人に、激変の時代を生き延びることはできません。日本社会は昔から集団の和ということを非常に重要視する社会でありました。多くの企業の社是が「和」でありますし、今でも集団の秩序には黙々と従う遺伝子が日本人の中には生きております。けれども、「繁栄の終わりの始まり」という未経験のステージに立っている今、私たちもまた生き方を変える必要に迫られております。流されてはならない。個人の頭で判断して動かなければならない。そういう時代の到来であります。

また「繁栄の終わりの始まり」に立っているということは、単に経済だけではなくて、都市と地方の関係ですとか、地方自治体の在り方を含めた社会構造、あるいは国防についての意識、生活スタイルと価値観 などなど様々なレベルの問い直しが迫られているということであります。そのどれもが一つ一つ個別にあるのではなくてすべてがかかわり合いながら「繁栄の終わりの始まり」という状況をつくっているという認識が必要になってきます。さらに言えば一つ一つを切り離すことができない。あるいは、切り離してしまっては埋没するか流されていってしまうということであります。たとえば、原発の再稼働問題を見てみたいと思います。昨年行われた討論型世論調査の結果2030年代のエネルギー構成に占める原発の割合について、最終的に参加者の46.7%が原発ゼロを支持するという結果がでました。約半数が原発依存に反対ということであります。ところが、そういう結果が出たのが8月で、その4ヶ月後には原発推進を掲げる自民党が総選挙で圧勝しているのです。これはいったいどういうことか。この珍現象を あえて説明するとしたら、私たち有権者の多くが原発の是非を単体で捉えていたということであります。単体で捉えるので、「それはそれ、これはこれ」という理屈が成立するわけです。つまり、「原発は原発、経済は経済」。「原発はイヤだけれども、やっぱり今は経済の方が大事だよね」。そういう有権者の判断であります。一つ一つの問題を個別に単体で取り上げると、全体の中で埋没してしまう・流されてしまうというのは、そういう意味であります。

去年夏前に国会前を埋めていた反原発運動のデモが結果的に社会的な力を持ち得なかったのもそういうことです。数千人もの参加者がみな原発の是非についてだけ関心を持っている人々であったことによります。、もっと言えば、目下の反原発デモが、かつてのような政治運動でないことが、参加者の裾野を広げた反面、政治運動でないゆえに、政治的な力を持ち得ないということであります。もし政治運動であれば、プラカードには反原発と書いてあっても、その背後に労働政策とか、社会保障制度ですとか、さまざまな政治課題についての政権批判、社会批判が張り付いているわけで、そういうデモがふくらんで一般市民に広がったときに、政治家はやっと本気で恐れることになります。アメリカで起った99%のデモも政治色のないことが最終的に力を持たなかった理由だと思います。翻って中国やエジプトなどで起こる民衆のデモや暴動は、当面のきっかけが何であれ、社会への不満をたっぷり含んでいるという意味で、実に政治的なのであり、だからこそ政府は恐れるわけです。

で、一つ一つの問題を単体で取り上げると、世界に通用しない例というのもあります。歴史問題、歴史認識の問題がそれです。たとえば政治家の多くは、「靖国神社への参拝は個人の心の問題であって、歴史認識とは関係ない」と言います。あるいは、「歴史認識を切り離して二国間の関係改善を図りたい」などという、まあそういう調子のいいことも言います。けれども、過去の戦争は国家の歴史そのものですから、国家と国家の関係において戦争の記憶を切り離すなどということは、ありえません。切り離すのではなく、乗り越えるというのが正しい対処の方法であって、乗り越えるためには、認識の共有が絶対に欠かせないのが道理というものであります。


高村薫・藤原健 作家と新聞記者の対話

高村薫・藤原健 作家と新聞記者の対話




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4:高村薫講演会「近代の終わりを生きる」 [講演会]

「近代の終わりを生きる」 高村薫 

2013年 3月23日(土) 第295回オムロン文化フォーラム講演から

まず、「繁栄の終わりの始まり」の意味するものですが、これは単に経済成長が終わったということではありません。私たちは今、日本というひとつの近代国家の「繁栄の終わりの始まり」を生きているだけではなくて、おそらく、資本主義経済と民主主義というひとつの文明の終わりの始まりを生きているのかもしれません。つまり、たとえば、年月と共に変化していく人口構成、あるいは、それに伴って変わっていく需給のバランス、産業の新陳代謝にも限界があること、さらには輸出先の事情に左右される貿易立国も永遠ではありえないこと、そしてまた資源にも限界があること、さらには天変地異、さまざまな条件の下で一国の歴史と経済は回っていくのですが、たとえば欧米の先進国を見ますと、みんなすでに、経済成長を終えています。そこから安定成長に移行できるか、あるいは、ゆるやかにマイナス成長へ転落してやがて債務危機を迎えるかの二つに一つであるのが、どうやら先進国における資本主義経済の近未来のようであります。で、私たちが学校でならった資本主義経済というのは、そもそも資本家が利潤をあげなければ成立しない仕組みであります。利潤をあげ続けるためには、市場は拡大し続けなければなりません。市場を拡大するために企業はあの手この手をつくすわけですけども、かつての造船業や鉄鋼業、今の電気産業のように市場の拡大に失敗することもありますし、人口減少や不景気で市場が縮むこともある。また、たとえば、マイカーが普及してないときにはどんどん車も売れるでしょうけども、仮に一家に2台も普及してしまえば、車の売れ行きは当然、鈍化します。こうして眺めて見るだけでも、原理的に永久に拡大し続けなければならないような経済メカニズムというのは、やはりどこかで修正局面を迎えるほかないのではと思います。日本は、移民が入って出生率も高いアメリカとは違って、ヨーロッパに近いカタチで既にピークアウトしたのであって、本当はこれからいかにして安定成長へと移行するかが問われているように思います。様々な理由からひとつの国が永遠に経済成長を続けることはできないというふうに思います。私たちが直面しているのはそういう地点ではないでしょうか。

また一つの国家の繁栄の終わりというときに、もうひとつ念頭においておかなければならないのは、グローバル世界であります。2000年を迎える前、これからはグローバル世界だと、人、物、金が自由に国境を超えて行くグローバル経済だと、さかんにバラ色の夢がばらまかれました。その夢になんとなく説得力があったのは、IT技術の進歩が重なっていたからですけども、日本の企業社会にもこれからはグローバル経済だ、グローバル世界になったら何もかもうまくいく、新しいビジネスが花開くなどと根拠のない楽観ムードが広がっておりました。けれども、現実はそれほどバラ色でなかったのは周知のとおりであります。グローバル世界になって、たとえば企業の意思決定のスピード、技術開発力、製品の魅力などなど、産業自体の力が国際競争でむき出しになった結果、電機メーカーはあっと言う間に競争力を失って、転落していきました。そこにあったのは経営のマズサもありますけども、たとえば韓国のサムスン電子を例に取りますと、実はグローバル経済による競争月間の下で、韓国は国家戦略によって集中投資をしたわけです。日本メーカーはそれに敗けたわけですから、たいへん皮肉な話であります。

またグローバル世界と申しましても人と物とマネーの移動に限られた話であって今のところ国民国家に代わる枠組みが発明されているわけではありません。さらに国境を越えた経済活動であるゆえに、そこに宗教や民族や政治体制・国家の意思が忍び込んでくることも避けられません。よく言われることですが、テロもまた国境を超えて拡がっているのがグローバル世界の現実であります。また、人と物とマネーが国境を超えて行き交うゆえに、世界貿易機関(WTO)の多角的貿易交渉は国家間の利害の調整が決定的に難しくなってしまいました。代わりに、二国間のFTAやEPAが重宝されているわけですが、これも大きな国と小さな国の二国間となるとどうしても大きな国が有利になります。場合によっては、この自由貿易協定は新たな収奪を産み出す可能性もあります。で、またさらに、TPPのような特定の貿易圏構想は自由貿易圏というタテマエとは別に囲い込みを通じた戦略的な意味合いを帯びているのも現実であります。農業や保険医療分野を犠牲にして日本政府がTPP交渉参加に前のめりになったのも明らかに低下した日本の地位を少しでも引き上げて日米同盟を強化したいという政権の思いが透けて見えてまいります。

で、ともあれグローバル世界はこうして逆に国家のエゴを一層際立たせる状況も生み出しているわけです。そして、多国間の国益が衝突したり利害調整ができずに宙吊りになったりする、そういう状況の多発は、それぞれの国の国民に不利益をもたらし、貧富の差を拡大させ、その結果、国民の不満を募らせて、社会不安やデモを呼び起こし、さらにはナショナリズムや排他主義を呼び込みやすくもなっています。グローバル世界が、あるところでは人々を思いのほか不幸にし、あるところでは民主主義そのものを脅かしているわけであります。2000年ごろ誰がこんな世界を想像したでしょうか。

さて、「繁栄の終わりの始まり」という現在の状況は、同時に資本主義経済の岐路でもあるのかもしれない。そういう話をここまでしてまいりました。一方、民主主義も近年は特に政治において行き詰まりが見られることから、その「限界」ということがアチコチで語られるようになりました。民主主義の負の側面、たとえば意見が割れて、物事がなかなか決まらないとか、少数派の意見が活かされないとか、民主主義も完全ではないという諦めが広く共有されるようになったのも最近の大きな変化であります。もちろん今のところ民主主義に代わる仕組みがあるわけではないですし、私たちは民主主義のルールの下で生きなければならないわけですが、その結果、たとえば、憲法が改正されるかもしれない地点にいつの間にか立ってしまっております。いつの間にか原発依存に戻ってしまっております。


作家的時評集2000-2007 (朝日文庫 た 51-1)

作家的時評集2000-2007 (朝日文庫 た 51-1)

  • 作者: 高村 薫
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞社
  • 発売日: 2007/10/10
  • メディア: 文庫



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3:高村薫講演会「近代の終わりを生きる」 [講演会]

「近代の終わりを生きる」 高村薫 

2013年 3月23日(土) 第295回オムロン文化フォーラム講演から

日本ですが、今私たちの目に見えている風景を「繁栄の終わりの始まり」と見るか、あるいは「いつもの景気循環の底にあるだけでこれから景気回復をして成長路線に戻れる」と見るか、どちらと見るかで、それこそ私たちはまっぷたつに分かれております。ちなみに現在の政権は「強い日本を取り戻す」と言っているわけですから、当然景気はどんどん回復して経済大国に返り咲くという見方のはずであります。で、またその政権の支持率が7割ぐらいあるということですので、結局、有権者の多くもそう信じていることになります。と、すれば、「繁栄の終わりの始まり」という見方はどちらかと言えば少数派だということになるかもしれません。

では、そのなぜ私はそう思うかであります。現在この国が立ち至っている状況は金融政策や財政政策などで成長路線に乗せられる乗せられないという、そういう次元の話ではない、そう私などは思うわけですが、その理由は四っつあります。まず、膨張する中国を小さくすることはできないという地勢学的な状況があります。次に、少子高齢化は当分止められないという人口構成の現実があります。第三に、経済再生に不可欠な産業の構造改革と規制緩和がやはりこの国にはできそうにない、もしくは、既に遅すぎるかもしれないという現状認識があります。そして、4番目、先の東日本大震災でつよく感じたことですが、この先、南海トラフで三連動地震が起きたり、あるいは首都圏の直下型地震が起きたりしたときに、この国はもう十分に復興するだけの体力が無いのではないかということであります。ちょうど南海トラフ大地震についての新たな被害想定が発表されましたので、みなさんもよくご存知のことと思います。被害を受ける住宅や企業活動の損失や、あるいは社会インフラの損失など合わせて最大220兆円の損失になるんだそうです。なまじ先進国として膨大な社会インフラのストックを持っているがゆえに、いざと言う時に、復興するには被害が巨大すぎるということに成らざるをえない。そして、それに加えて、もしどこかの原発が重大事故を起こしたら、狭い国土に人間の住めない地域がさらに広がるということにもなります。これが地震の活動期に入った日本特有のきびしい現実であります。このように中国という地勢学上の条件と人口減という社会構造の制約と政治の失策による構造改革の失敗、そして地震という自然条件、合わせて四つの理由で私は今の日本が国家として相当厳しいところに立っていると思うのです。で、もちろんこれは私が思うことであって、皆さんは違うかもしれません。たとえば皆さんの中には、「アベノミクスで景気は上向いているではないか」とおっしゃる方もおられるでしょう。けれどもこれについては、現段階では期待が先行するカタチでの円安株高であって、設備投資や増産などの実質的な成長が始まったわけではありません。現に、キプロスの債務危機で、ユーロの先行き不安が起こりますと、途端に為替が円高に振れていることがその証拠であります。

今の株高は、実体経済を反映したものではないのです。市場が期待しているのは日銀の金融緩和ですけども、その具体的な手法、すなわちどんどん紙幣を刷って、国債をどんどん買い入れて、資金をどんどん市中銀行に流すということを実行したところで、肝心の資金の行き場が無ければ、これまでと同じくお金がダブつくだけに終わります。これも専門家の共通した認識であります。すなわち企業自身が設備投資を増やして増産をする体制にならなければ、景気の回復はないということですけども、その肝心の企業は勢いを取り戻すための道が閉ざされたまま根本的な変化は起きていないのです。

それはなぜか。はじめに申しましたように、日本の企業の長い低迷の原因は、規制緩和ができないことの他に、時代に合せた構造改革ができていないことの二つに尽きるというのが長く生きてきた私の実感であります。長年、構造改革の必要が叫ばれながら、一向に進まなかった結果、産業の新陳代謝ができずに、古い企業・活力を失った企業が残って、新しい産業が生まれなかったということであります。民間で新しく企業を興す開業率とそれと企業をたたむ廃業率の統計があるんですが、日本はどちらも数%台なのに対して、アメリカはどちらも十数%あります。この数字を見るだけでも、アメリカ社会では、企業や産業の入れ替わりが活発に起こっていることが一目瞭然でありますし、その中から、たとえばマイクロソフトもアップルも出てきたわけであります。

ひるがえって日本を見てみますと、たとえば自動車産業は末端まで系列化されているため、トヨタが転ぶとみんな転ぶというそういう仕組みの中で、中小企業の新陳代謝は非常に起こりにくいのがわかります。また、たとえば福島第一原発の事故を起こしてフツウの企業ならつぶれてもおかしくない損失を出しながら、それでもなおこんなに採算の合わない原発をやめようという動きにならない電力業界、これも同様であります。電力会社を頂点にした産業のピラミッドがあまりにも巨大過ぎて、原発をやめようにもやめられない、そういう状況下で日本の産業全体が活力を失っているのは、いわば当たり前の結果ではないかと思います。で、そして活力も競争力もない企業が少々円安や株高になっても従業員の給料に反映させるほどの余裕はありません。赤字をせいぜい黒字にするか、内部留保をして財務体質を補強するのが精一杯であります。と、なると、私たちの所得は伸びず、商品も伸びず、結果的に経済も回復しないということになります。

で、ともあれ、今、私に、目に見えているこの国の風景が「繁栄の終わりの始まり」であると思う理由を、こうして四つばかり述べさせていただきました。要約すれば、どんな政権が誕生してどんな政策を打ち出しても、かつてのような経済成長に戻ることはナイということです。しかし、一方には、強い日本を取り戻すことに自信満々の人たちもいるわけで、こうして人によって、白か黒か、右か左か、180度ちがう方向を見ているというのも先行きが見えない時代のひとつの証しであると思います。

ここまでは、今がどういう時代であるのかという認識についてお話してまいりました。で、それでは、今が仮に「繁栄の終わりの始まり」だとして、そういう時代を私たちはどう生きていったら良いのかというテーマに進みたいと思いますが、はじめに申しましたように私は政治家ではありませんので、具体的な処方箋などは申し上げません。それよりも「繁栄の終わりの始まり」が意味するものを考え、それに向き合う時にどんな視座がありえるのかという抽象的な話にとどめたいと思います。


作家的時評集2000-2007 (朝日文庫 た 51-1)

作家的時評集2000-2007 (朝日文庫 た 51-1)

  • 作者: 高村 薫
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞社
  • 発売日: 2007/10/10
  • メディア: 文庫



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2:高村薫講演会「近代の終わりを生きる」 [講演会]

「近代の終わりを生きる」 高村薫 

2013年 3月23日(土) 第295回オムロン文化フォーラム講演から


それがここ2,3年の間に少し変わってきているのを感じます。有り体に申せば、窓の外の風景の基調がすこしづつ変わってきてるように私には見えるのであります。高度成長期から90年代初めまでの間にたっぷりと蓄えられてきた繁栄のストック、これが失われた20年の間に少しづつ食い潰されてきて、それでたとえば、ひと昔前なら考えられない笹子トンネルの崩落事故のようなことが起きる。なにかヘンだと思います。「日本はこんなにオソマツな国だったっけ」、そう思うそんなことが増えてきていると思うのであります。で、これをひと言で言えば、「繁栄の終わり、もしくは繁栄の終わりの始まり」と呼ぶことができると思いますけども、私たちが今、列車の窓の外に見ているこの風景はいったいどこから始まったのでしょうか。言い代えれば反映はどこでピークアウトして、そこではどんなことが起きていたのでしょうか。これも私などが改めて申し上げることでもないんですけども、今がどういう時代であるのかを明確にするために、簡単に整理をさせてください。

まず変化の大元が、日本の国力の低下にあることについては異論がナイと思います。平成24年版の経済白書を見ますと、95年以降アメリカや中国、韓国、それにアジア諸国はGDPが堅調に右肩上がりで伸びつづけております。その一方、日本だけが完全に横ばいになっていて、日本の経済規模の縮小と停滞は一目瞭然であります。90年代後半に広がった経済のグローバル化は、たとえば安価な労働力とより大きな市場を求めて生産拠点を中国など海外に移す、そういう企業の動きを本格化させました。その結果、中国やアジアが急速に発展をして、相対的に日本が縮んでいるわけですが、それだけではありません。国力低下の一番の大きな原因は、80年代以降、自民党の長期政権下で慢性的に政治の停滞があって、そして、動きの速い時代に合わせて産業の構造改革と規制緩和を進めることができなかった。これが日本の産業の力を弱め、結果的に国力の低下を招いた一番の大きな原因だと思います。さらに少子高齢化によって労働力人口が90年代半ばに頭打ちになったわけですが、特に製造業において、ひとりひとりの労働生産性が落ちてきていることが、それ以上に深刻であります。生産性というのは、いわゆる付加価値でありますから、日本の物づくりは、生産効率ですとか、労働者の質ですとか、あるいは技術革新といった面でも遅れ始めているということになります。

もちろんリーマンショック以降は、円高という要因もありましたけども、これも政治の停滞で、効果的な通貨政策が取られなかった面があることは否定できません、けれども、たとえば経営危機に陥ったシャープが韓国のサムスンから増資を受けたり、ソニーパナソニックがサムスンの後塵を拝するという今日の状況は、単に円高だけが原因だったのではありません。80年代以降の政治の停滞と既得権益に固執して規制緩和に消極的だった官僚制度と、そして、成功にアグラをかいて時代を読み違えた日本企業の経営のマズサの三つがまずあって、そこにアジアの発展や金融危機や通貨政策の敗北などが重なったということであります。つまりグローバル世界ではあっても、問題はまず私たち日本人にアルということであります。

で、もう一つ、資源を輸入に頼る日本では資源価格の高騰や輸入量の増加による貿易収支の赤字が恒常化しておりまして、所得収支の黒字を食い潰すカタチでの経常収支の財政赤字が続いております。これは当面仕方のないことではありますけども、たとえば、経常収支のなかの財政部門の財政赤字については看過できないレベルになっていることは皆さんもご存知のとおりであります。私たちがどんなにお金を稼いでも、それを国が食い潰すことになりますと、やがて国際収支にも響いてきて、国家財政の破綻につながってまいります。まだそこまでは行っておりませんけども、財政規律がこんな風にないがしろになっている現状も確実に日本の国力低下につながっていくわけで、これもまずは私たち日本人の問題であります。

そこで、この国力の低下は、国内と国外の両方に影響をしてきます。まず国内では、貧困層の拡大という形で現れております。労働者に占める非正規雇用の割合、年収200万円以下の所得層の割合、それから修学援助の児童数、生活保護受給者の数、などが増加の一途となっているそういう状況は、私たち生活者の身にも、日々、風景の変化として見えるものであります。身近な例を一つあげますと、ユニクロがあります。ユニクロの登場は90年代後半ですけども、2000年代はじめまでは、とにかく安いというイメージでありました。それがユニクロ自体のブランド戦略のおかげで、今では銀座や百貨店に進出しているんですが、Tシャツが1枚千円であるというのも、またそれをアタリマエのように着るというのも、相対的に私たちの「家計が縮んだ」ということ以外のなにものでもないと思います。で、私もふだんユニクロのTシャツを着ておりますけども、なにしろ古い世代ですので、そこそこの品質のTシャツが千円であることの感動よりも、これでいいんだろうか、という戸惑いの方が未だ大きいというのが事実です。ともあれ、ユニクロの成功は一にも二にも新しい価値観を作り出した点にあるわけですけれども、日本の所得水準の低下と歩調を合わせて成長してきた人気ブランドだということであります。

さて、その日本の国力の低下を国外から見てみますと、そのまま世界の中での相対的な地位の低下となります。これまでも日本が国力に見合った存在感を発揮できてこなかったのは、ひとえに政治の停滞と、それに加えて戦後長きにわたって私たち日本人が日米同盟に安住してきた結果、思考停止に陥ってきたことが大きいわけですが、それが今、国力の低下と共に存在感のナサといったレベルではない、文字通りの地位の低下、重要性の低下へと変わってきております。ここへ来て中国や韓国がさまざまに歴史認識を蒸し返したり、尖閣諸島や竹島の領有権問題を政治利用したりするようになったのもそのことが大きいのは否定できません。国民性がチガウとはいえ、私たち日本人の感覚では理解できない反日感情のすさまじさに私などは時々どうしていいのかわからない困惑の方が先に立ちます。

で、私の感じる困惑は、21世紀になってここまで日本人が近隣諸国から憎まれ、あるいは国家として蔑まれていることへの困惑と隣人たちにここまで憎悪をむき出しにされるほど日本の経済力と重要性が小さくなったことへの困惑のふたつであります。もちろん冷静に眺めれば、中国や韓国が思っているほど日本は小さくなっているわけではありませんし、中国や韓国の一部の反日運動は決して褒められたものでもないわけですが、ともかく日本がかつて世界第二位のGDPを誇る経済大国だった時代には絶対に起こらなかったであろう力関係の変化、これの光景を私たちは今見ているのであります。

で、さて、そこで私は、この現在の光景を「繁栄の終り」を見ているというふうに認識しているわけであります。で、「繁栄の終り」と言いますのは、世界経済の基軸の変化、さらには国内産業の構造的な要因によってもたらされている一般的な景気循環の中の不況というよりは、一つの国家の繁栄の時代の終わりというもう少し大きなククリの話であります。イメージとしては、たとえば大航海時代に反映したスペインやポルトガルの現在、あるいは19世紀の大英帝国の現在といった感じだと思います。で、実は、日本だけではなくてEUの先進国も皆、低成長時代を迎えているんですけども、日本ほどの少子高齢化ではないことと、女性の社会進出が進んでいることと、あと二度の世界大戦を乗り越えた強固な民主主義の価値観が共有されていること、そして、社会インフラを更新して維持していける程度の経済成長は維持できている、これらの点で日本よりは安定しているか、もしくは衰退のスピードは日本よりはるかに緩(ゆる)やかではないかというふうに思えます。



高村薫・藤原健 作家と新聞記者の対話

高村薫・藤原健 作家と新聞記者の対話

  • 作者: 高村 薫
  • 出版社/メーカー: 毎日新聞社
  • 発売日: 2010/01/29
  • メディア: 単行本



作家的時評集2000-2007 (朝日文庫 た 51-1)

作家的時評集2000-2007 (朝日文庫 た 51-1)

  • 作者: 高村 薫
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞社
  • 発売日: 2007/10/10
  • メディア: 文庫



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1:高村薫講演会「近代の終わりを生きる」 [講演会]

「近代の終わりをいきる」高村薫

2013・3・23NHK文化センター 京都教室 オムロン文化フォーラム にて録音

本日は、今わたくしのように一小説家が考えていることを率直にお話したいと思っております。小説家が今の時代をどう捉えているか。それをどう生きようと思っているかということになりますけども、私はとくに何の専門家でもございません。経済学者でも政治学者でもありませんけれども、小説家であるということは、時代と無関係ではありえません。小説作法や表現の手法自体は、時代や社会から完全に自由でありたいと思いますし、あるべきだとは思いますけれども、小説家には身体があります。その身体が日々生活をして同時代を生きている以上、同時代の空気が小説作法や表現に忍び込んでくることは避けられません。むしろ、忍び込んでこない方が問題であるとも言えます。ともあれそういうわけで、小説家として日々働き、生活者として日々社会を眺め、日々いろいろなことを感じてはいるんですけども、最近は特にいったい何が正しいのかわからないことが、多くなりました。未来が見えないと感じることも多くなりました。ならば今、一生活者として一小説家としてよくよく考えておくべきことがあるんではないかとそういう風に思うのであります。

で、今日は、こうして一段高いところに立たせていただいておりますけども、私が時代と社会を眺めている視線は皆さんと同じ高さにあると思っておりますし、生活者としてかかえている不安も先が見えない落ち着かない感じも、たぶんあまり違わないのではないかと思います。もちろん考え方は人によって様々ですし、私とは違う価値観をお持ちの方もおられると思いますけども、社会全般に所得格差が広がっているのと同じように、生活感覚の差、あるいは価値観の差も広がっているのが今の時代の特徴の一つでもあります。たとえば、原発についての賛否ひとつをとりましても、今日ここにおいでの皆さんのなかで大きく二つに分かれてしまうのでないかと思います。そういう価値観の差が広がっていく時代を私たちひとりひとりがどう生きるかというのが本日私のお話ししたいことのひとつでもあります。

で、今日は「近代の終わりをいきる」という、もうとても大層な演題となっておりますけれども、本日の私の話には柱が二本あります。一本は今がどういう時代であるか、私たちは今どういう時代を生きているのかということであります。そして、二本目の柱は、どういう時代であるかというその認識の上に立って、ではその時代をどう生きるかであります。もちろんハウ・ツーではありませんし、道徳や精神論の話をしようというのでもありません。もっと切実になんとかして不幸にならないように、なんとかして少しでも安定して生きていけたらいいなあという、そういう話だと思っていただけたら幸いでございます。

それでは一本目の柱の話に入ります。私たちは今どういう時代に生きているのか、であります。これは私のようにある程度の年まで生きた人間にはなんとなくつかめることなんですけれども、まだ少ししか生きていない若い人にはなかなか難しいと思います。若い人でもなんとなく鬱陶しいとか  なんとなく暗いといったその時代の空気は直感的につかむことはできますけども、たとえば自分が生まれていない時代と比較して相対的にどうであるかということは言うことができません。今がどんな時代であるかを捉えるには一定の長さの時間軸が必要でありまして、だからこそ人は折にふれて歴史を学ぶわけです。ですから若い方は御両親の話を聞いたり、あるいはご自分で史料や本を開いたりしてできるだけ長いスパンの変化を見渡せるよう少し自覚的に勉強する必要があります。たとえば私自身は自分がまだ生まれていなかった戦争の時代ですとか、あるいは明治大正の日本を理解するために折々に本を読んだりしてそれがどういう時代であったのかをつかみ、そして今はどういう時代であるのかを捉えるようにしてまいりました。人は皆そうして自分が生まれる前の時代について一定程度理解できるようにそれぞれ努力をして、その結果、自分が今どういう時代に生きているのかをつかんでいるわけであります。

で、なぜ自分が生まれていない時代にまで遡って歴史的な経緯や変化を知る必要があるか、もしくは知りたいと努力するか、その理由は、端的によりよく生きるためであります。必要だと直観するので、自覚的に学ぶということです。どんな場面でもどんな事柄でも人には生きるためのカンが働きます。このカンが働かない人は、働く人に比べて大きな困難に直面する可能性が高いと思います。たとえば、「アリとキリギリス」のアリが夏も働くのは単にアリは働き者だから夏も働くのではなくて、冬にコマルと思うから働く。冬にコマルというカンが働くから夏の今働くことができる、という風に考えることができます。一方キリギリスは単に怠け者なのではなくて、今遊んでいたら冬にコマルというカンが働かない、つまり未だ、目の前にない未来に自分が陥るかもしれない危機を感じとってその危機を回避すべく今できることをする。これは人間がそれぞれ生きるために働かせるカンなのであります。自分が生まれていない時代にまで遡って、時代の流れという視点を確保してそこから今の時代を眺めるというのはまさに自分がよりよく生きるためでありまして、生きるためにカンを働かせているのだということであります。

えー、さて、今がどういう時代であるかという本題ですけれども、一定の時間軸のなかで、相対的にこれを捉えるために、「走っている列車とその窓から見える外の風景」にたとえてみたいと思います。で、私のような中高年は、もう60年も同じ列車に乗りつづけております。中学生は十数年、大学生は二十数年、30代の方は三十数年、乗っています。で、私たちはみんな、生まれた時に日本という名前の列車にそれぞれ途中から乗り込んで、死ぬ時にその列車を降りていくという風に考えてください。今現在の乗客数は1億2千万人であります。で、この列車ですけども、私が物心ついた頃、すなわち50年代の終わりから60年代はじめにかけてまだまだ乗り心地は悪かったですし、窓の外の風景は貧しいものでありました。もちろん今と比べて相対的に貧しかったということでして、終戦直後に比べれば、鉄筋コンクリートのアパートができたり、あるいはテレビや冷蔵庫が普及してずいぶん豊かになっておりました。あらためてお話するまでもなく、日本という名の列車は順調に走り続けました。なによりも平和でしたし、そして60年代は高度成長、70年代以降も、概ね3%台の安定成長が続きました。車窓の風景はどんどん豊かになっていて、気がつくと、世界第二位の経済大国にもなっておりました。もちろん風景は必ずしも平坦ではありませんで、途中には二度のオイルショックやプラザ合意、あるいはバブル、バブルの崩壊 がありましたし、阪神大震災以降は大きな地震が多発するようにもなりました。オーム真理教事件のような特異な事件も起きました。子どもの虐待件数は増加の一途にあります。また、失われた10年とか20年とか呼ばれる長い不況とデフレ経済は今も続いておりますが、それでも総じて私たちの目には「繁栄の風景」があったのではないかと思います。


作家的時評集2000-2007 (朝日文庫 た 51-1)

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高村薫・藤原健 作家と新聞記者の対話

高村薫・藤原健 作家と新聞記者の対話

  • 作者: 高村 薫
  • 出版社/メーカー: 毎日新聞社
  • 発売日: 2010/01/29
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NHK文化講演会から(「マークスの山」の著者高村薫は現代日本の現状を言挙げし、その中、どう生きるべきか提言する) [講演会]

「近代の終わりを生きる」と題して、去る5月5日、NHKラジオ第一で、高村薫の講演(録音)が放送された。

実際の講演は 2013年 3月23日(土) 14:00~15:30 

第295回オムロン文化フォーラム講演 としてなされた。

NHKのサイトでは、講演の紹介として・・、

《世界が機軸を失い、進歩が当たり前だった文明に迷いが生まれ、民主主義の価値観も揺らぎ始めた。こうした時代に、我々は生きている。近代の価値観が終わりつつある混迷の先に何を見いだすべきか作家の高村薫氏が提言する。》

と、ある。


紹介文から受ける印象は「抽象的」で、「面倒くさい」感がつきまとうが、実際になされた話は、具体的な事例、具体的な数字を上げつつなされた。いわゆる「取っつきやすい話」であった。

しかし、それでいて、講演は、だいぶ激しいものでもあった。「提言」というより、叱咤激励にちかい印象があった。

当方は、女史の社会論評など見るときに、この人の目は確かだという思いをずっと持ってきた。目そのものが躍如として活動している印象があり、しかも、その目は、高い位置に据えられてある。

と、同時に、ヒッツメ髪で、なりふり構わぬ、女野武士然とした作家は、ユニクロを愛用する飾り気のないおばさんでもある。講演は、みなさんと同じ生活者という立場で語られていく。


ここのところ、当該ブログの更新がなされなかったのは、高村の毒気に当てられたともいえよう。

講演の内容の要約を、更新記事として呈示しようと思っていたのだが、全文を載せたくなった。

高村もそういう意図のもとに語っているように思うが、特に、若い人たちに読んでもらいたい。


作家的時評集2000-2007 (朝日文庫 た 51-1)

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高村薫・藤原健 作家と新聞記者の対話

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  • 発売日: 2010/01/29
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井上荒野、父・光晴を語る(NHKラジオ文化講演会) [講演会]

NHKラジオ文化講演会に井上荒野が登場し、「幸福の絶対値」(だったかな?)というテーマで話をした。

はじめ、「ウソツキみっちゃん」の娘だ。まあ、(聞かずとも)イイか・・、と思ったのだが、まさに父上・井上光晴のことがカタラレテイルのを知って、聴くことにする。


講演は不慣れなのであろう。つまりつまりエエなどとウナリながら話していく風なのだが、オモシロイ。

それほどオモシロイ内容を話しているわけでなくても、なんとなく笑ってしまう。きっと、人生のおかしみをいつも探っているような人なのであろう。そこはかとなく漂ってくるユーモアに運ばれて笑ってしまう感じである。


講演テーマにそって要約すれば、

話者の家族は世間的に変(ヘン)な家族であったが、育つ過程で変(ヘン)だと思ったことはなく、変(ヘン)だと思うようになったのはずっと後年になってからで、話者が、世間の基準をもちだして「フツウはこうだよね・・」とか、「ミンナはああしてる・・」などという言葉を持ち出すと、父・光晴は、「フツウってなんだ?ミンナってだれだ?」という風に、問い返し、そのような世間的な基準というものに振り回されることの愚かさを戒める風であった。思うに、ほんとの幸福というのは、世間標準や対世間のなかにアルのでなく、もっぱら個人に属するものではないか・・というような話だ・・、と要約できる。


が、父・光晴のウソツキぶりは群を抜き、さすがである。なにしろ、自分の出自までウソをついていたのだ。文学辞典など参照すると、「旅順」生れ、などとなっているが、実は久留米なのだという。

講演中紹介されていたが、子供の頃に、荒野が「カレーの国のお姫様」(だったかな?)という作品を書いたと父・光晴は作家仲間に自慢ぽく吹聴していたらしい。それを、親しかった瀬戸内寂聴が聞いて、エッセイなどで、荒野のことを書く際に、すでに紹介してきたのだが、たぶん、「ウソツキみっちゃん」のウソツキぶりを、これから出かける講演に先立ち突如思い出したのであろう。「これから講演で、荒野ちゃんのことを話すのだが、話していい?『カレーの国のお姫様』って書いたわよね・・」と聞かれたので、ナイと答えたという。

憎めないウソというやつであろう。小説などというものは、これはウソですからね、ウソなんですよ、どこまでいってもウソなんですからネ・・というのが前提でなされる所業である。だから小説家はウソツキに決まっている。

ウソも、「ほら男爵」ほどのホラであれば、もうただ笑うしかない。


ひどい感じ―父・井上光晴

ひどい感じ―父・井上光晴




ほらふき男爵の冒険 (偕成社文庫2074)

ほらふき男爵の冒険 (偕成社文庫2074)

  • 作者: ミュンヒハウゼン
  • 出版社/メーカー: 偕成社
  • 発売日: 1983/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



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排斥される時、耐える方法:社会心理学セミナーから [講演会]

先回に引き続いて「排斥と受容の行動科学」の講演を通して学んだ点を簡潔に記す。

いま、更新中の記事が消えてしまって、ソネットから「排斥」された気分である。保存しながら、適宜更新していればよかったのだが、なにか変な操作をしてしまったのかもしれない。その点で、自分に問題があるのかもしれない。あるいは、ソネブロの更新プログラムの方に問題があるのかもしれない。

さて、では、気を取り直して記す。


仲間と思っていた個人、小グループあるいは帰属集団から受け入れてもらえず、排斥されたときに耐える方法。


その1:対症療法としてアセトアミノフェンを服用する。これは鎮痛解熱剤。ふつうの風邪薬に入っている。

こころの痛みが発生しているとき、MRIで脳の活性部位を調べると、からだの痛みが発生している時と、ほとんど同じところが活性する。からだの痛みに鎮痛作用をもつ薬は、こころの痛みにも有効。


その2:自尊心(自己肯定感)をもつ、高める。

排斥されたとき、そうされた理由を考慮するのは大切だが、すべて自分に非があるなどと考えない。相手や帰属集団の方に問題がある場合もある。自分に非がないにも関わらず、自分を排斥しようとする個人や集団からは離れる。新しい関係を築く。他のところに自分の居場所を見出す。


その3:(自分を排斥する個人・集団から離れることがむずかしい場合は)将来のことを考える。

長期的展望に立って、現在の痛み・苦しみ・疎外感を解釈する。(これも実験の結果、有効であることが証明されている)。


講演中、お話を聞きながら、イエス・キリストやヨブのことを思い出していた。まさに、ふたりとも、孤独(孤立)に耐えた人々であるが、どちらも、自分は神に是認されている、すべての人のこころを調べることのできる神は自分のことをご存知であるという確信をもっていた。そしてまた、イエスの場合は、自分が人々から疎んぜられ排斥され苦しみを経験するその理由も知っていた。(ヨブは、その点を知らないため、苦しみは大きかったが、それでも、将来に対しては希望をもっていた)。

至高の存在(神)から是認されているという高い自尊心(しかし、もちろんそれは「傲慢」ということではない)と、自分が苦しむ理由を知っていること、そして、ふたりともに、たとえ命を奪われることがあったとしても、神はご予定の時に、自分を復活させてくださるという将来の希望(信仰)をもつゆえに彼らは耐えることができた・・

と、聖書には示されてある。


旧新約聖書―文語訳

旧新約聖書―文語訳

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 日本聖書協会
  • 発売日: 1996/12
  • メディア: 単行本



排斥と受容の行動科学―社会と心が作り出す孤立 (セレクション社会心理学 25)

排斥と受容の行動科学―社会と心が作り出す孤立 (セレクション社会心理学 25)

  • 作者: 浦 光博
  • 出版社/メーカー: サイエンス社
  • 発売日: 2009/04
  • メディア: 単行本



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社会心理学セミナー「排斥と受容の行動科学」講演後の質疑から [講演会]

昨日更新した「つづき」である。

講演後、質疑の時間が設けられたので、「せっかくそのための時間が提供されてあるのに、モッタイナイ」とばかりに、当方も挙手し、質問したのだが、その後、つづいて質問された方たちのことで驚いてしまった。

だから、質疑によって得られた情報の中身について以下に記すわけではない。


ということで、その驚いた点についてだが・・、二つある。

ひとつには、出席者は、地域住民の一般参加の方と地元大学の学生がほとんどであると思っていたのであるが、質問したのは地元大学の面々ではなかったということだ。

早稲田、一ツ橋と阪大(だったかな)の学生、院生が質問に立ったことである。この方たちは、浦教授と一緒にお供で来た方たちなのだろうか。それとも、今回のセミナーのために各地からわざわざ「追っかけ」てきたのだろうか。それとも、学籍はそれらの大学にありながら、セミナーを開催した当地の国大で研究しているというケースなのだろうか、大学のそのような制度について疎いので、いろいろ疑問が生じもしたが、ひとつには、その点である。

もうひとつは、当方のしたような質問ではなかったという点である。簡単にいえば生活感がないという点である。研究内容と生活の結び付きを示唆し実感させるものではなかったという点だ。

浦教授の講演には、生活感があった。分析的であると同時に総合性を目指したものであった。第一に日本の社会の現状とそこに住まう国民の心理社会学的分析とその結果を踏まえて、研究成果をどう生活に生かしていけるかというカタチをとっていた。しかし、学生、院生の質問は、そうした点に食い下がるようなものではなかった。あくまでも、統計の取り方とかその分析方法について問うものであった。

それは、彼らが、生活者であるというより、学究であるところからくるもので、至極当然のことかもしれないが・・、

なにか、質問を聴きながら、背筋がひやっとする思いがした。

特に、女性の質問者のときにそのように感じた。


純粋理性批判 上 (岩波文庫 青 625-3)

純粋理性批判 上 (岩波文庫 青 625-3)

  • 作者: カント
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1961/08/25
  • メディア: 文庫



純粋理性批判

純粋理性批判

  • 作者: イマヌエル・カント
  • 出版社/メーカー: 作品社
  • 発売日: 2012/01/20
  • メディア: 単行本



「温かい認知」の心理学―認知と感情の融接現象の不思議

「温かい認知」の心理学―認知と感情の融接現象の不思議

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 金子書房
  • 発売日: 1997/07
  • メディア: 単行本



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日本全土の希望のモデル、沖縄に、あり [講演会]

「社会心理学セミナー」ということで日本グループダイナミクス学会会長も歴任された浦光博広島大学大学院教授の話を聞いてきた。

演題は「排斥と受容の行動科学」

昨今の日本の状況について触れられた。要するに、経済成長の展望がなく(「マイナス成長」下で)、経済格差が広がっている状況である。

そうした状況は、人間の心身にマイナスの影響を与える。疑心暗鬼を生み、他人が信じられず、孤立していく。そのようにして互いに互いを排斥しあうようになると、アメリカでも日本でも、統計上、同様の結果が出る。互いを信頼できないまま、孤立する人々は、早死にの傾向がある。

ところが、そうしたなかで、例外的な事例が沖縄。日本の全体のなかでも貧しい部類にあり、経済格差の大きさという点で全国2位の沖縄は、長命の県として有名である。

なぜか?

それは、まったく見ず知らずの初対面の相手に対してでも、とりあえず信頼を示し、お付き合いしてみましょうという対人的な積極性があり、同時に、望ましくない人物であると思った場合、すぐに関係を切ることのできるメリハリのある県民性。

特定の人間関係のなかにのみ自分を位置づけるのでなく、新しい人間関係において開かれており、ある関係に行き詰ったなら、別な関係を築いていく開かれた人間性を持っているから。


人間は、文字通りの人間関係においても、ヴァーチャルな世界の人間関係においても、他者から受け入れられたい、受容されたい、排斥されたくないという願望をもつものとして生存している。その願望が満たされない場合、心身にマイナスの影響を及ぼす。

排斥されること(受容されないこと)は、人間のホルモンバランスを狂わせ、自律神経を狂わせ、その結果として免疫力を低下させ、血圧を上げるなどして心臓等への負担を増大させる。

また、そのような心身へのマイナスの影響は、マイナスの行動を引き起こすものともなる。

その良い例が、秋葉原の歩行者天国を地獄に変えた男の例。文字通りの世界でもネット上でも他者から受け入れられない状況(それは当人の言動に排斥されるだけの問題があったわけだからだろうが)が、産んだ事件ともいえる。

互いに猜疑心をもち、孤立していく社会ではなく、個人としての自尊心(自己肯定感)を高め、互いに受容し、さらに他者のうちに自尊心を育てる社会にすることは大切である。


以上は、浦教授の話を“当方なりに”まとめたもので、教授の話そのままでは“ない”。教授は「秋葉原の歩行者天国を地獄に変えた男」などという表現はしていない。MRIを用いて脳の活動領域を示すなど実験結果を示しつつ話を進めてくださった。


講演後、質疑の時間が設けられた。そこで、貧と格差のマイナス要因のなかにありながら、心身面で健康に思える沖縄は、経済プラス成長を望めない、しかも、今後経済格差がさらに増大してゆくであろう日本全体のモデルとなりうるのではないか。昭和30年代の社会や「一億総中流」の社会をなつかしく思い、また、当時に戻る・戻すことを願う意見もあるが、教授はどのように思われるかという質問をした。

教授の回答は、昭和30年代の社会や「一億総中流」の社会のように、ただ、貧しければいいというものではなく、格差がなければいいというものでもない・・というものであった。

教授の回答を得て、沖縄の人々について当方がもった印象は、“沖縄は別格”というものだ。

どうも沖縄の人々は、本土の人間とは根っこのところで精神の在り様が異なるようである。本土の人間は、沖縄の人々のもつ受容的なハートが必要なようである。対人関係を拡大していく開かれた精神が必要のようである。

講演後、隣に座っていた女の子(大学生)たちのことを見ながらつくづくそう思った。自分たちの中で関係が終わってしまって、隣のおじさん(つまり、当方のこと)なぞ眼中にないのである。おじさんは、排斥される疎外感を多少なりとも味わった。しかし、これがフツウなのもわかっている。自分も、他者との関係においては五十歩百歩である。でも、そこを切り拡げていく必要があるのだろう。

沖縄への関心が高まった。

http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2008-11-19

***************

次のURLは浦教授のブログ

『避難所の組織論』
http://blog.livedoor.jp/orihuti0-mizoski/


排斥と受容の行動科学―社会と心が作り出す孤立 (セレクション社会心理学 25)

排斥と受容の行動科学―社会と心が作り出す孤立 (セレクション社会心理学 25)

  • 作者: 浦 光博
  • 出版社/メーカー: サイエンス社
  • 発売日: 2009/04
  • メディア: 単行本



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「半落ち」の横山秀夫さんに会ってきた [講演会]

大学主催の講演会で横山秀夫さんにお会いした。

指揮者のエリアフ・インバルを彷彿とさせる。

53歳ということだが年齢よりずっと上に見える。

知的な重労働はカラダにも重く刻印を残すのかもしれない。

執筆の心労がかさみ、過去に心筋梗塞をおこし、臨死体験も経験している。

日航機墜落現場の死屍累々を見、自分でも死の瀬戸際に立ったことなど、みな背負っている姿にも見えた。


演題は「人はなぜ小説を読むのか」というものだ。

その問いの横山さんの答えを(当方なりに)強引にまとめるなら・・・

小説に示される他者(つまり著者)の世界・人間観をとおして自分のソレを点検するため。

(横山さんご自身は「他者の創造物を通して自分を読む・自分をモニターする。」など、表現していた。)



横山さんは、以下のように問いかけ、推論していかれた。


リアルとはなにか?

小説がリアルで現実がフィクションではないのか?

自分自身のみリアルで、他の事象はすべてフィクションでは?

現実=リアル、小説=フィクション、しかし、現実も小説も、どちらも同じ水平線上にあるように思える・・・


世界の諸事象を「わかっている」かのように言うのは傲慢である。本当に身近な者の考え・感情でさえ、思い違いしていたことに気づかされることがある。他者の言動の点と点を想像力でつないで他者のことを理解するように努め、理解したかのように思っていても全くハズレていることがある。

我々各人は世界の諸事象の点と点を結んで、各人が「わかっている」ように思い込んでいるだけで、実際には異なった世界を見ている。

想像力をとおして真理に近づくことはできても決して到達することはできない。

「世界はこうである」とではなく、「ワタシが(想像力をめぐらせ)つくりあげている世界はこうである」としか言えないのではないか。


我々はなんらかの組織・集団に帰属している。自分の帰属する組織や集団の影響力は大きい。我々の世界・人間観にも多大な影響を及ぼす。その影響を受けるままに偏った見方に堕していないかどうかを小説を読むという行為をとおして点検することができる。


(ヒドク大ざっぱなマトメで、横山さんに聞かせたら、ホントニそんなこと言った?と言われるかもしれない。その点、講演の点と点を当方は以上のように結んだと言い訳するしかない。)



講演後の談話のなかで、「覚悟の感じられない小説はつまらない」という話しが出た。「自分だけいい子になっているような…」作品は「覚悟がない」のだと言う。

医師会に呼ばれての講演の際、「医者は非常識だ」と横山さんが話をするとどっと笑ったのだそうだ。「他の人はそうかもしれないが、自分は例外だと思っているので笑うのだ」と横山さんは言う。


そんな話しを聞きながら、ホンモノの作家の言葉は諸刃の剣であって、自分自身をもっとも深く傷つけているものなのだと思った。

なるほど、横山さんが年齢不相応に老成してしまうのも無理はない。

(以下のURLは『有隣堂』のもの。横山さんの談話が出ています)
http://www.yurindo.co.jp/yurin/back/yurin_452/yurin4.html



第三の時効 (集英社文庫)

第三の時効 (集英社文庫)

  • 作者: 横山 秀夫
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2006/03/17
  • メディア: 文庫



クライマーズ・ハイ

クライマーズ・ハイ

  • 作者: 横山 秀夫
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2003/08/21
  • メディア: 単行本



マーラー:歌曲集

マーラー:歌曲集

  • アーティスト: マーラー,マーラー,インバル(エリアフ),リュッケルト,ウィーン交響楽団
  • 出版社/メーカー: コロムビアミュージックエンタテインメント
  • 発売日: 2007/12/19
  • メディア: CD



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