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「書く」のは、「業(gou)」・・ [本・書評]

これといって書くことがない。

以前、河合隼雄さんが、新聞コラムの連載を担当して、書くことがないのでひねり出すのがたいへんだとか書いていたのを思いだす。

書くことがなければ書かなければいいだけの話だが、河合さんの場合、依頼主と読者の期待がかかっていたのだからタイヘンだ。

野坂昭如は、その点、たいへんなクセモノであったらしい。野坂担当編集者であった方の著書(『言葉はこうして生き残った』)で、そのことを知った。雑誌の連載を引き受けながら、カンヅメにされた場所から逃亡する。あと2時間たったら来てくれ、インターホンを押してくれれば、かならず原稿を渡すから・・と言うので、そのとおり出かけると、インターホンが引きちぎられ、アカとアオの電線が出ているだけ・・。月刊雑誌にアナを開け、この責任は、野坂によるものであります、というような一文だけ(白紙部分に)記して、誤魔化したこともあるという。それでも、憎めない人物であったように書いてあった。(以上、当方の記憶によるもので、正確なところは、現物にあたっていただきたい)。

言葉はこうして生き残った

言葉はこうして生き残った

  • 作者: 河野通和
  • 出版社/メーカー: ミシマ社
  • 発売日: 2017/01/28
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



松本清張も吉川英治も、作家は忍耐勝負で、ツクエの前にどれだけシンボウできるか・・と言ったというが、その点、編集者にカンヅメにされ、ツクエの前から逃げられないようにされているというのは、プロ作家ならではの冥利でもあろう。そのようにして、作家としての実り、果実を得られるのなら、それはそれでけっこうなことではないか。

テネシー・ウィリアムズ回想録 (1978年)

テネシー・ウィリアムズ回想録 (1978年)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 白水社
  • 発売日: 1978/09
  • メディア: -


ここのところ、風呂に入っては、テネシー・ウィリアムズの自伝を読んできた。いちばん落ち着いた読書時間に、ある意味、最もクダラナイ本を読んだといっていい。ホモセクシュアル作家の「ウィタ・セクスアリス」であり、アルコールと薬づけの日々を記した本だ。その合間に、創作のこと、上演・再演した劇のこと、俳優たちのこと、精神を病んでロボトミー手術を受けた姉(ローズ)のことなど記されていく。現在と過去が交錯する。

そもそもは、著名劇作家の日常とその交友から、彼の生きた時代のアメリカを知ることができようとの思い、またその序文から作家の「業」をしることができようと思って、読みはじめた。

F ・ ラブレー と テネシー・ウィリアムズの共通点
http://kankyodou.blog.so-net.ne.jp/2015-11-19

結局、読了して得た一番のものは、何かというと、人間の「業」。テン(テネシー・ウィリアムズの愛称)の表現欲という個人的な「業」であり、人の目(評価)にさらされることに過敏で、精神の平衡を欠いてしまうたいへん繊細でプライドの高い人間性、そして孤独・・・といった人間としての「業」。

そうした「業」を告白したクダラナイ本ではあるのだが、とうとう最後まで読みきってしまった。つまり、作品としてたいへん巧みに構成されているということなのだろう。ひどく惨めな最期が待っている予感が常につきまといつつ、緩急をつけながら終わりまで進んでいく。最後は姉への愛情で終わっているというのが、なんだか救いであった。

原著は、三島由紀夫の死んだ1975年発行。テン「来日」の際、三島から酒を控えるようやさしい気遣いを示されたことやその死についての記述もある。翻訳は1978年9月。

その後、1983年に「ボトル・キャップを喉に詰まらせ窒息死」と(ウィキペディアに)ある。その結末は、全然おかしくない。当然の帰結にさえ思える。たいへん実り多い作家ではあったようだが、実生活は幸福にはほど遠いものだった。

クダラナイを連発してきたが、ただクダラナイだけなら読みすすめることなどできない。それができたのは、『回想録』が、結果として考慮に値する対象であったことを意味するのだろう。「人間の業の肯定だ」といわれる落語を、立派な文学と思っている当方から見て、人間の業に言及する「落語」同様に思えたのかもしれない。決して、わらえる内容ではなかったが・・・

**********

映画「黒い雨」~「トルーマン」~「オバマ」「暴力的過激主義対策(CVE)サミット」10の問題点 
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2015-02-20


『三遊亭円朝全集・42作品⇒1冊』

『三遊亭円朝全集・42作品⇒1冊』

  • 出版社/メーカー: 三遊亭円朝全集・出版委員会
  • 発売日: 2015/01/04
  • メディア: Kindle版



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ブログ逍遥(東ゆみこー阿部嘉昭ー谷内修三ー今福龍太) [本・書評]

へんなタイトルをつけたが、本日目にしたブログの持ち主の名前。

先回更新した「東ゆみこのウェブサイト」を見ていて、

http://mythology.tea-nifty.com/higashiyumiko/cat21102742/index.html

「山口昌男 蔵書」をキーワードに検索(グーグル)したら、「阿部嘉昭のブログ」がヒットした。その2013年03月11日記事は「山口昌男さんが亡くなった」と題されている。

それを見て、阿部が、いわく(因縁)ある山口昌男を自社講演に招き、そのため《キネ旬》退社を余儀なくされた映画評論家であることを知った。

http://abecasio.blog108.fc2.com/blog-entry-1531.html

ついでに、他の記事を見ていたら、阿部は詩を書いているようでもある。

さらに「阿部嘉昭」で検索をかけると、「詩を書いているようでもある」どころか、昨年 『換喩詩学』(思潮社)で、鮎川信夫賞(詩論集部門)を受賞している詩論家であることがわかった(ウィキペディア)。


検索結果のなかに、『阿部嘉昭と私のスタンスの違い』という記事があり、そのブログ名は「詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)」となっている。その記事は、阿部から受けたフェイスブックのコメントに応えるかたちで、阿部との「スタンスの違い」を谷内が記したものだ。

http://blog.goo.ne.jp/shokeimoji2005/e/cf7044eb5f5bd9bf293db04f0af710a8


もうひとつ、《「身体としての書物」 今福龍太》も、忘れてははいけない。そもそもはじめの興味である「山口昌男 蔵書」に直結するサイトである。
http://www.cafecreole.net/onbooks/onbooks-special.html


それらの記事を読んで今、漠然と、詩と散文のちがいについて考えている。それは、肉体と精神(言葉)といっていいかもしれない。三島由紀夫は(たしか、どこかで)自分は本来的に詩人ではないという意味のことを書いていた(ように思う)が、そのこととの関連においてだ。


人間どこでどう触発を受けるかわからない。

イヌも 歩けば 棒に当る


換喩詩学

換喩詩学




谷川俊太郎の『こころ』を読む

谷川俊太郎の『こころ』を読む

  • 作者: 谷内 修三
  • 出版社/メーカー: 思潮社
  • 発売日: 2014/07
  • メディア: 単行本



太陽と鉄 (中公文庫)

太陽と鉄 (中公文庫)

  • 作者: 三島 由紀夫
  • 出版社/メーカー: 中央公論社
  • 発売日: 1987/11/10
  • メディア: 文庫



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『自己実現のための勉強法』(「東ゆみこのウェブサイト」から) [本・書評]

しばらく前に『山口昌男 人類学的思考の沃野』という、いわば山口昌男追悼本の中に掲載のある 東ゆみこの論考がおもしろいのでついいい気になって引用したのだが・・

http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2015-01-05

その東ゆみこ先生が、ご自分のウェブサイトをもち、「自己実現のための勉強法(学術篇)」なるカテゴリーのもと、14件の記事をしたためているのを知った。

http://mythology.tea-nifty.com/higashiyumiko/cat21102742/index.html

そこには、

当ブログによくおいでくださっている方ならご存じだと思いますが、私はここ数年、文化人類学者の山口昌男先生のそばで先生が本を読んでいる姿を間近で見、舞台や美術館を見に行ったり、学会や書店に行ったりするときに足の悪い先生の介添え役としてお伴をしてきました

と、ある。

上記記事(「自己実現のための勉強法」)を読んで感じたことにすぎないが、山口の晩年に付き添った東先生もまた、鶴見和子の介護に携わり看取った妹の内山章子さんがそうであったように、その「知的活力のようなものを」、山口「の死に際して一身に引き受けてしま」うような経験をしているやもしれない・・・

興味あるところだ。

http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2014-07-31


山口昌男 人類学的思考の沃野

山口昌男 人類学的思考の沃野




クソマルの神話学

クソマルの神話学

  • 作者: 東 ゆみこ
  • 出版社/メーカー: 青土社
  • 発売日: 2003/09
  • メディア: 単行本



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共通テーマ:学問

無邪気~ライプニッツ~ナム・ ジュン・パイク~パングロス博士~カンディード の大団円 [本・書評]

先の更新で、『無邪気』であることに触れたが、ちょっと不思議な巡り合わせが起きた。

ここのところ、『イメージの人類学』を読みこなそうと努めている。むずかしいのであるが、読み解くなら、得られるものが大きいと思えもするのである。可能性を感じるのである。それで、呻吟しつつ読み進めているのだが・・・


イメージ人類学

イメージ人類学

  • 作者: ハンス ベルティンク
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2014/11/05
  • メディア: 単行本



そうしたなか、最近、並行して読んでいる本(『知識の社会史2』)のなかで、「ライプニッツ」が「サイバネティクス」の元祖であるようなことが書いてあった。


知識の社会史2: 百科全書からウィキペディアまで

知識の社会史2: 百科全書からウィキペディアまで

  • 作者: ピーター バーク
  • 出版社/メーカー: 新曜社
  • 発売日: 2015/07/17
  • メディア: 単行本



それで、「ライプニッツ サイバネティクス」で検索したところ・・・

ノーバート・ウィーナーとマーシャル・マクルーハン
─コミュニケーション革命─
ナム ジュン・パイク
pdf" target="_blank">http://www.inamori-f.or.jp/laureates/k14_c_paik/img/lct_j.pdf

ナム・ジュン・パイク著『バイ・バイ・キップリング』
松岡正剛千夜千冊
http://1000ya.isis.ne.jp/1103.html

・・・などのサイトがヒットし、おもしろく思って、さらに「ナム ジュン・パイク」を調べていたら、なんと『イメージの人類学』の日本版の序に記されてある《TV仏陀》という美術作品はパイクの創作であることがわかった。

そして、さきほど、ライプニッツを楽天家として揶揄する作品がヴォルテールの『カンディード』であることを知り、カンディードの家庭教師である哲学者パングロスは、ライプニッツを指しているのだという。

そのことは既に、『ライプニッツ術』の解説サイトで読んだり、ウィキペディアの『カンディード』の項で読んでいたはずなのだが、見ても認知していなかったようである。

厳しい楽天家ライプニッツ
http://www.kousakusha.co.jp/ISSUE/leibniz.html


ライプニッツ術―モナドは世界を編集する

ライプニッツ術―モナドは世界を編集する

  • 作者: 佐々木 能章
  • 出版社/メーカー: 工作舎
  • 発売日: 2002/10
  • メディア: 単行本




それにしても、楽天主義には根拠がなければならないワケだし、ハズだが、きっとライプニッツほどの人物であれば、世情がどれほどひどく、身にふるかかる火の粉が多くても、楽天的であるだけの根拠が自分のうちに常にあったのであろう・・などと思いもする。

南方熊楠のなりたかったもの 
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2015-08-03

要は根拠である・・・

・・・などと『カンディード』そのものを読みもせず記しているのだが、ウィキペディアの解説をあらためて見たら『カンディード』の意味は天真爛漫、無邪気であるというではないか。これもまた、一度読んで、忘れていて、いま思い出したのだ。

ウィキペディア『カンディード』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%89

それで、先の当該サイトの更新ともつながった。

月食を見そびれた・・、「まあだだよ」 
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2015-09-30

めでたしめでたしの大団円・・・


オプティミズムの音楽(バーンスタインのオペレッタ「カンディード」)
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2015-01-31


「バイ・バイ・キップリング」ナム・ジュン・パイク

「バイ・バイ・キップリング」ナム・ジュン・パイク

  • 作者: ナム・ジュン・パイク
  • 出版社/メーカー: リクルート出版部
  • 発売日: 1986/01
  • メディア: 単行本



カンディード 他五篇 (岩波文庫)

カンディード 他五篇 (岩波文庫)

  • 作者: ヴォルテール
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2005/02/16
  • メディア: 文庫



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文章語を用いて論理的に語るために(斉藤孝の「大人のための読書の全技術」から) [本・書評]


大人のための読書の全技術

大人のための読書の全技術

  • 作者: 齋藤 孝
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA/中経出版
  • 発売日: 2014/07/31
  • メディア: 単行本



家内を歯医者に送って、当方は新刊書店で立ち読み。

上記書籍をざっと見るなかで、ひとつ印象に残った点がある。斉藤孝が感嘆している。フランス語を口頭で逐次、訳しつつ、それが立派な文章になっていく人物のことだ。流石の斉藤先生も自分にはデキナイと脱帽している。

ふだんの会話に用いるような口語ではなく、意味含有量の高い文章語を用いて話すことができるというのは、やはり、相当な読書量と自己訓練がいるようである。

先の当該ブログ記事で、大平正芳元首相がそうであることを示した。同時に、安倍晋三首相は、流暢に話すが、文字起こしすると「文意不明」であることも示した。

「立て板に水」の安倍晋三と「アーウー」の大平正芳 
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2015-09-08

大平元首相は、実際に読んだ本が1万5千冊というはなしである。そこまで読んで、しかも、聞く人が納得できる(つっこまれるスキのナイ)ように話すための誠意努力が常時なされていたから、デキタということなのではなかろうか。

大平元首相同様の評判を得ている人物をもうひとり挙げることができる。大修館書店から刊行されている『大漢和辭典』の編纂者である諸橋 轍次である。『大漢和辭典』刊行のいきさつを、『漢文のすすめ』と題する本のなかで、原田種成(はらだ たねしげ)大東文化大名誉教授が記している。当時、原田は大東文化学院の学生で、『大漢和辭典』編纂のお手伝いに駆り出され、諸橋を親しく知る機会があった。また、実際にその授業を受けもした。そうした中で、諸橋轍次自身が、(今、『漢文のすすめ』が見つからず、原文を示せないのだが・・・)「オレの話すことを文章に起こすと、そのまま原稿になるよ・・」と言ったが、実際そのとおりであったと証ししている。

**************

「前にも書いたが、外国語学部の教授たちが言っている。学生たちは会話は達者になったが、文章を訳させると国語力がないから、訳したものがちゃんとした日本語になっていない、と。」(原田種成著『漢文のすすめ』から)

山口謡司と杉本秀太郎
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2015-08-11

凛としたたたずまい。小沢さんにも願いたい。
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2006-09-13

フランス小学校と日本の小学校の英語必修化
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2006-05-15


漢文のすすめ (新潮選書)

漢文のすすめ (新潮選書)

  • 作者: 原田 種成
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1992/09
  • メディア: 単行本



大漢和辞典 全15巻セット 別巻『語彙索引』付

大漢和辞典 全15巻セット 別巻『語彙索引』付

  • 作者: 諸橋轍次
  • 出版社/メーカー: 大修館書店
  • 発売日: 2000/05/10
  • メディア: 単行本



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竹越与三郎は、「明治維新」をどのように評価していたか(加藤秀俊著『メディアの展開』から) [本・書評]

『日本の名著』で桑原武夫が(真の)「歴史家」と評した竹越与三郎が、「明治維新」をどのように評価しているかを示す部分を加藤秀俊著『メディアの展開』からさらに引用してみる。


メディアの展開 - 情報社会学からみた「近代」

メディアの展開 - 情報社会学からみた「近代」

  • 作者: 加藤 秀俊
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2015/05/08
  • メディア: 単行本



***********

この『二千五百年史』に先だって明治24(1891)年、ちょうど『マコウレー』執筆とほぼ並行して書かれた『新日本史』は欧米とくに英仏の書物の記述する西洋史と日本史とを比較検討する、というきわめて斬新な方法で構成されていることに気がつく。その文章は古風だが、書かれている内容はいまなお明晰で溌剌としている。とりわけ注意すべきはかれの「革命」論である。かれによれば、およそ「革命」には3種類がある。いわく、

およそ一国の大革命は、三種あり。英国の如きは・・・国民政治上の楽園は過去にあり、かくのごとき国柄に於ける革命の希望は、現代の失政を革(アラタ)めて旧政に帰らしめんとするにあるが故に、名けて復古的の革命と称すべし。

これに反して仏国のごとき、米国のごとき歴史は暴乱圧抑の暗黒を以て掩われ、回顧するに一点の光明なく・・・光明はただ前途に存するの国にありては、革命、理想的の性質を帯び、一に現在の制度を破壊して、理想の美国を打ち立てんとするにありき。

一に圧抑の惨状を以て充たされ国民の胸中にも理想なくして寸前暗夜のごとく、後に希望もなく、前にも光明なき国に於ける革命は、理想的にもあらず、復古的にもあらず、ただ現在の痛苦に堪えずして発する者にして、是れ之を名けて真正に漠々茫々の乱世的革命(アナキカルレボリューション)という。p568

それでは、いったい日本の「明治維新」とはなんであったのか。竹越によれば、それは「乱世的革命」であった。日本の「近代大変革」は、

決して回顧にあらず、決して理想にあらず、ただ現在の社会の不満に、現在身に降り積もりたる痛苦に堪えずして発したる乱世的の革命たりしや明らかなり。已(スデ)に然り、これを引きて勤王の感懐に出でたる復古的の革命と為すは抑(ソモソ)も孟浪(モウロウ)の言のみ・・・この乱世的革命の動機は、実に社会の結合力漸(ヨウヤ)く弛(ユル)みて、まさに解体せんとしたるにあり。

つまり、19世紀なかばの日本社会は全体的に弛緩して統制力をうしない、おのずから「解体」したのである。その原動力を「勤王の感懐」にもとめる、などというのはウソだ、というのである。「乱世的」という表現が適切であるかどうかはともかく、これをひきおこしたのは民衆のあいだに蓄積されていたルサンチマンだったのだ。

なぜ、それが成功したのか。『新日本史』はその原因を「封建制度」にもとめる。いわく、

封建制度ほど解体しやすきものはあらず。何となれば封建制度は一種の連邦制度にして、その連結の関鎖(開閉)は一に威力によりて存ず。もしこの威力あらんか、百千歳もこれを維持すべし、この威力なからんか、一日も保つべからず。

この文章をしるしていた竹越の脳裏には、ことによると若いころに翻訳した『米州行政権論』があったのかもしれない。かれにとっての「封建制度」というのは「地方分権」という行政組織に似たものであって、そのゆるやかな連合体としての幕府は一見したところ中央集権的な巨大権力のごとくにみえるが、じつは力のバランスのうえにのった脆弱な象徴的なものだったのだ。どこかで破綻がおきると、それは伝染的にひろがって、おのずから自壊的に解体せざるをえなかったのである。p569

それでは、いったいこの「解体」がいつはじまったのか。竹越はその時代の特定についてきわめて明快で断定的である。『新日本史』では「封建社会の解体は紀元二千四百(1740)年にあり」という頭注のもとに山県大弐(ヤマガタダイニ)の事件を序曲にして「反上抗官」が顕在化したとするが、『二千五百年史』ではもっと具体的に宝暦8(1754)年の郡上八幡での叛乱から「革命」がはじまった、という。

この叛乱は、まず領主金森頼錦(カナモリヨリカネ)が農民への徴税方法を変更したことに端を発し、地域的な「農民戦争」が展開した。農民代表は江戸に直訴するし、藩主も幕府に裏工作をするという大騒動。団結した農民はむしろ旗を立て、竹槍で武装して家臣団と戦った。島原の乱以降、はじめて鉄砲が叛乱鎮圧のため使用されたというほどの大事件である。しかも、この叛乱では農民が藩政に対して三十三箇条の罪状を堂々とかかげて革命宣言をしているのであった。両者からの意見を聴取した幕府は結局のところ両成敗で頼錦は領地を追われて終生南部藩に身分を預けられ、結局家名断絶。家臣団も四散。いっぽう農民がわは代表2名が死刑になっただけだった。どちらが勝ったかは、この結末からみておのずからあきらかであろう。農民戦争での勝者は農民だったのだ。それがヒキガネになって日本ぜんたいが「乱世的革命」にはいってゆくのである。竹越によれば「頼錦、諸侯の身をもって農民と争うて敗るるの一事は、無意識的に封建制度の弱点を知りし国民をして、有意義的にその乗ずべきを知らしめ」たのであった。そして、この郡上での農民戦争は連鎖反応的に全国に飛び火した。p570

超えて(宝暦)九年、日向児湯郡の民、徒党して去り、明和元年には武蔵秩父八幡山の民、非政を幕府に訴えんとして檄を遠近に伝うるや、上野・下野の民またこれに応じ、集まるもの二十万人、蕨駅に至り、群代伊那備前守の鎮圧するところとなりて事やみぬ。・・・・・かくのごとくして宝暦の末より農民の乱、年々歳々、やむときなく、封建制度唯一の担保たる武力の威力も、もはや絶対的に恐るべきものにあらずとなりぬ。

と竹越はいう。

つけたりになるが、竹越は英語での単著『日本文明史の経済的側面』(The Economic Aspects of the History of the Civilization of Japan)を1930年に発刊している。日本人の手になる日本近代史の英語版としては稀有の事例であり、日本人の手になる日本史の書物としてトインビーがとりあげ、絶賛を惜しまなかった書物のひとつはこの竹越の著書だった。いまの読者にはほとんどなじみがなかろうが、かれほど世界的な読者をもった日本史家はいなかったのである。p571

徳川を「封建暗黒の時代」としたのは
(『メディアの展開』加藤秀俊著から)
http://kankyodou.blog.so-net.ne.jp/2015-07-29-1


独学のすすめ (ちくま文庫)

独学のすすめ (ちくま文庫)

  • 作者: 加藤 秀俊
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2009/11/10
  • メディア: 文庫


*********

郡上一揆
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%A1%E4%B8%8A%E4%B8%80%E6%8F%86

中山道伝馬騒動
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E9%81%93%E4%BC%9D%E9%A6%AC%E9%A8%92%E5%8B%95

農民一揆と茂左衛門事件 
田 畑 勉  群馬高専教授
http://www.sogogakushu.gr.jp/kosen/jissen_3_96nouminikki.html


山県大弐と宝暦・明和事件—知られざる維新前史

山県大弐と宝暦・明和事件—知られざる維新前史

  • 出版社/メーカー: 日吉埜文庫
  • 発売日: 2013/05/23
  • メディア: Kindle版



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竹越与三郎 孤高のリベラリストの実像とは [本・書評]

新聞掲載のミネルヴァ書房新刊案内に『竹越与三郎』とある。

「孤高のリベラリストの実像とは」というコメントが付されていなければ、文楽の太夫と誤認したかもしれない。新聞には、下にあるような書籍画像はなかったのだからなおさらだ。


竹越与三郎:世界的見地より経綸を案出す (ミネルヴァ日本評伝選)

竹越与三郎:世界的見地より経綸を案出す (ミネルヴァ日本評伝選)

  • 作者: 西田 毅
  • 出版社/メーカー: ミネルヴァ書房
  • 発売日: 2015/09/10
  • メディア: 単行本



幸いなことに、最近読んだ加藤秀俊さんの著作《メディアの展開 - 情報社会学からみた「近代」》において啓発を受けていた。それで、誤認せずにすんだ。


メディアの展開 - 情報社会学からみた「近代」

メディアの展開 - 情報社会学からみた「近代」

  • 作者: 加藤 秀俊
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2015/05/08
  • メディア: 単行本



加藤さんの『メディアの展開』12章(「自由の季節」-「近代」文化史再考)には、竹越について次のように記されてある。すこし長いが、引用してみる。

田口卯吉のあと、こんどは竹越与三郎という卓越した歴史家があらわれた。中公新書の「創刊号」ともいうべき桑原武夫編『日本の名著』は明治以降に出版された名著50冊をとりあげて紹介・解説しているが、そのなかで編者じしんが執筆した「名著」のひとつはその三叉竹越与三郎の『二千五百年史』であった。なぜ、この書物が「名著」としていまなお読まれなければならないのか。その事情はこう書かれている。p565

こんにち“歴史科学者”は多いが、“歴史家”は少ない。いうまでもなく歴史は事実の学であって、事実の発見、その真偽の判別、その相互連関などを調べることを基礎的作業とする。しかし、そうした作業を実証科学的にまたは法則追及的におこなうだけでは、まだ歴史にはならない。歴史はつねに全的把握を必要とする。たとえ限られた時期の、限られた問題を扱うにしても、そこに全的把握の光がさしていなければ、歴史の部分品であって歴史とはいえない。こんにち歴史書はきわめて乏しいのである。学問の細分専門化と精密化という美名が、こうした欠陥の存在を学者に忘れさせており、欲求不満におちいった読書人は、さすがにトインビーは偉いなどと思ったり、時代物大衆文学をひもといたりして、ごまかしている。(強調箇所は、加藤秀俊氏による)

この書物がつくられた時期、編者たる桑原先生のちかくにいて、しかもその執筆者のひとりとして参加していたわたしにはこの文章の意味がイヤというほどよくわかる。あの時代、京都大学だけでなく日本の大学の人文学はほぼ圧倒的にマルクス主義史学の影響下にあり、わたしのまわりは「歴史科学者」ばかりだった。そんななかで「歴史家」として竹越をとりあげたのは編者の炯眼というべきであろう。正直なところ、わたしじしんが、この「歴史家」について深く知り、『二千五百年史』を熟読したのはそのときであった。p566

もとより、わたしの世代ならこの人物の名前は知っていたが、なにしろ題名が「二千五百年」つまり皇紀の年号でしるされ、しかも「紀元は二千六百年」という歌を戦時中に歌っていたのだから、この本は「皇国史観」による国粋主義の書物にちがいない、と頭からキメつけていたのである。しかし、じつはそうではなかった。明治29(1896)年に出版されたこの本はリベラリストによる貴重な日本史概論だったのだ。

竹越与三郎は田口卯吉におくれることちょうど10年、慶応元(1865)年に現在の埼玉県本庄市に生まれ、のち新潟に移住、そして明治16(1883)年に上京して慶応義塾に入学し、福澤諭吉に学んだ。かれは「維新」を体験したことのない新世代の慶応ボーイだったのである。そして諭吉のもとで英語をよく勉強して17歳のときにチャンプルンという人物の『米州行政権』を翻訳した。現物をみていないのでわからないが、おそらくアメリカの連邦政府と州政府の関係を論じた書物だったのであろう。それを手はじめに、かれは福澤に激励されて『近代哲学綜統史』『独逸哲学栄華』などたてつづけに訳書を出版した。バジョットの『英国憲法之真相』(The English Constitution, 1867)を原著刊行後20年で翻訳したのも竹越であった。

翻訳だけではない。かれは明治23(1889)年にはクロムウェルの伝記を書き、さらにマコーリーの『イングランド史』を読んで『マコウレー』という書物を明治26(1893)年に書き上げた。つまり、竹越は英語の文献によって英米の歴史と歴史学を学び、その素養のもとに日本の歴史に挑戦したのである。

文筆家としては、一時、福澤の経営する時事新報社に入社したがまもなく退社して群馬県の高崎教会にはいって洗礼をうけ、英語塾をひらくと同時に徳富蘇峰を知って『国民新聞』で論陣を張る。のち、こんどは西園寺公望の知遇をえて月刊誌『世界之日本』の主筆となり、文部大臣時代の西園寺文相の秘書となり、明治35(1902)年に新潟から立候補して衆議院議員となった。晩年は貴族院議員、枢密顧問官などを歴任して昭和25(1950)年に85歳でその生涯をおえた。p567


このあとに、「歴史科学者」ではなく、「歴史家」である竹越与三郎。「英語の文献によって英米の歴史と歴史学を学び、その素養のもとに日本の歴史に挑戦した」人物の「明治維新」に対する評価がしるされていて、たいへん興味深い・・・

竹越與三郎
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E8%B6%8A%E8%88%87%E4%B8%89%E9%83%8E

徳川を「封建暗黒の時代」としたのは
(『メディアの展開』加藤秀俊著から)
http://kankyodou.blog.so-net.ne.jp/2015-07-29-1

2:講演を聞いて・・「網野善彦 人と学問」 
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2010-06-07


日本の名著―近代の思想 (中公新書)

日本の名著―近代の思想 (中公新書)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2012/10
  • メディア: 単行本



独学のすすめ (ちくま文庫)

独学のすすめ (ちくま文庫)

  • 作者: 加藤 秀俊
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2009/11/10
  • メディア: 文庫



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『本居宣長』小林秀雄著 入手 [本・書評]

昨日、古書店で小林秀雄著「本居宣長」を入手した。

存命当時、小林秀雄は新潮社からいちばん高い原稿料をもらう人物と聞いていたが、入手した単行本も昭和58年時の定価で、4800円と高価である。それが、たいへん安くなっていて、100円に消費税。

いま並行して、当方は、靖国神社の創建の由来をしめす(以下の)本を読んでいる。ざっと読んだことを、かいつまんで述べるなら・・・


靖国誕生 《幕末動乱から生まれた招魂社 》

靖国誕生 《幕末動乱から生まれた招魂社 》




靖国神社は、以前「東京招魂社」と呼ばれていた。

倒幕運動のために犠牲となった長州藩士らの慰霊のための施設が「招魂社」。ソレは仏教に根ざすものではなく、神道に拠るもの。はじめ長州(山口県)にはじまり、長州藩士の犠牲者が出た地(たとえば、五稜郭での戦いのあった函館)にも設置されるようになる。大村益次郎、青山清といった長州人の肝いりで、東京・九段の地に置かれたのが「東京招魂社」のちの靖国神社。

「招魂社」の慰霊の仕方にふかく関わる人物として平田篤胤があげられている。驚いたことに、篤胤の神道思想には洋学の影響があり、キリスト教も関わっているという。そしてまた、フランシスコ・ザビエルは、かつて長州において布教をおこない、それは成功していたらしく、ザビエルの影響がのちの「廃仏毀釈」運動にもつながっていくという。

西洋中世が「暗黒」となった理由
http://kankyodou.blog.so-net.ne.jp/2015-08-23


・・・と、前置きが長くなったが、本居宣長を尊んでいた平田篤胤についての新情報を『靖国誕生』をとおして知り驚いていたところに、小林秀雄の「本居宣長」をみつけたので、さっそく買ったというわけである。

ちなみに、今、『本居宣長』を読み始めたら、次のような文章が出ていた。

川口常文の「本居宣長大人伝」には、「此歌(宣長の辞世とされている歌)、大人の自ら書き給へるを、今も妙楽寺に所蔵せり。さて人死れば、霊魂の往方は其善きも悪きも、なべて夜見なりと、古事記傳玉勝間等に云れ、また歌にもよまれたるが、此頃にいたりて、其説等の非説なるを、さとられつれど、其を改めらる々いとまなくして、はたされつるにて、其は此御歌もて證しとすべく、其御意のほど炳焉たらん」、尚詳しくは、平田翁の「霊魂眞柱」を参照せよ、とある。言うまでもなく、平田篤胤は、鈴門の第一者を以て自ら任じてゐた人だ。この熱烈な理論家には、宣長の辞世が、自身の思想の不備や矛盾を自覚し、これを遂に解決したものと映じた。しかし、この意味での辞世ほど、宣長の嫌ったものはない。p18

以上の文章を読むときに、篤胤を「鈴門の第一人者」と、実際のところ呼びうるのだろうかとの疑問を感じているところ・・。

**********

『靖国神社(東京招魂社)』は長州由来
http://kankyodou.blog.so-net.ne.jp/2015-09-06

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本居宣長 (1977年)

本居宣長 (1977年)

  • 作者: 小林 秀雄
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1977/10
  • メディア: -



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靖国神社『秘史』 戦後における「秘史」 創建にいたる「秘史」 [本・書評]

政治問題化して、なにかと騒がれる『靖国神社』の戦後の「秘史」、そして創建にいたる「秘史」を示す書籍を、それぞれ御紹介したい。

戦後の方は・・・


靖国戦後秘史 A級戦犯を合祀した男 (角川ソフィア文庫)

靖国戦後秘史 A級戦犯を合祀した男 (角川ソフィア文庫)




以下、毎日新聞書評欄に掲載されていたもの、全文引用。

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戦後70年の夏、安倍晋三首相は側近に靖国神社を代理参拝させ、自分が見送る理由を「政治・外交問題化したから」と説明させた。

しかし、生涯で意義あることをしたと自負できるのは「A級戦犯を合祀したことである」と豪語した松平永芳宮司は、「東京裁判の否定」という信念から昭和天皇の反対を承知で合祀を決行した。敗戦で出直した日本が参加する第二次大戦後国際秩序への異議申し立て、政治・外交上の挑戦状をたたき付けたに他ならない。

晩年の昭和天皇は、靖国に参拝しなくなった理由を「今の宮司がどう考えたのか 易々と/(父親の宮司)松平(慶民)は 平和に強い考(え)があったと思うのに 親の心子知らずと思っている」と側近に語り残している。

松平宮司の登場まで戦後32年間、靖国を守った皇族出身の筑波藤麿宮司は、その意を体して合祀を長年、意志的に宙づりにしていた。

A級戦犯合祀問題を、敗戦直後からの生々しい人間ドラマとして洗い直し、知られざる内幕と背景、将来展望をえぐる。第一次安倍政権の2007年に刊行した単行本の文庫化。巻末に読売新聞の渡辺恒夫主筆が寄稿しているのも読みどころだ。(N)

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靖国神社創建の由来、創建にかかわる「秘史」を知る上では、以下の本がおススメ。

安倍首相のお膝元である長州藩(山口)由来であることがわかる。

『靖国神社(東京招魂社)』は長州由来
「天皇の思し召しによって」創建されたものではナイ
http://kankyodou.blog.so-net.ne.jp/2015-09-06

「平成のねずみ男」は“長州”出身
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2015-01-17


靖国誕生 《幕末動乱から生まれた招魂社 》

靖国誕生 《幕末動乱から生まれた招魂社 》

  • 作者: 堀 雅昭
  • 出版社/メーカー: 弦書房
  • 発売日: 2014/12/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



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『資本主義という病』奥村宏・著(松原隆一郎・評) [本・書評]

昨日につづいて、毎日新聞・書評欄掲載の書籍。


資本主義という病: ピケティに欠けている株式会社という視点

資本主義という病: ピケティに欠けている株式会社という視点

  • 作者: 奥村 宏
  • 出版社/メーカー: 東洋経済新報社
  • 発売日: 2015/05/15
  • メディア: 単行本



不祥事の責任取らぬ「会社本位主義」と題して、松原隆一郎氏が評している。

「10年一むかし」というが、ジューセン問題は、どれほどムカシになるのだろう。ほとんどモンダイの中身は忘れたが、責任を取るべき銀行が責任を取らず、結局、国民がその負担を負うハメになった問題だったように思う。司馬遼太郎が生きていてモンダイを憂い、たいへん深刻な顔をしていたのだから、二むかしくらい前になるのだろうか。

責任を取るべき筋合いのモノが責任を取らないというのは、やはりモンダイだろう。責任を取らないことで、どこかの誰かに、ソノしわ寄せがいく。そして、しわ寄せは、たいてい「弱者」に向かって寄せていく。要らぬ責任を押し付けられてシアワセになれるはずがない。

責任をとらないのは大銀行だけではナイらしい・・ということで、上記書籍に興味をもったしだい。

書評には、原発事故のこと、東電のことなども含められている。「国家主義」に代えて日本人が信奉するようになった「会社本位主義」「一種の宗教」という表現もある。

その「一種の宗教」を、故・小室直樹大先生であれば、「ソレは「日本教」です」というかもしれない。

日本国民であることのオソロシサ
ウォルフレンと小室直樹著作から 
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2012-12-28

(以下、書評全文引用。強調表示は環巨洞による)

*************

 鹿児島県の川内(せんだい)原発一号機が再稼働したという報とともに本書を読み、 異様な読後感 を持った。

 評者はいわゆる反原発論者ではなく、福島第一の事故処理が進んでいないことをもって再稼働に絶対反対というのでもない。 しかし東京電力もしくはその幹部に事故の責任を取らせることが確定していない現時点で再稼働させてしまうのでは、「次に事故を起こしても責任は問われない」と電力会社各社にお墨付きを与えたも同然になる。どんなに規制を厳しくしようが、責任を問われないならヒューマン・エラーは避けられまい。

心理的な安全装置を外すような決断がなされるのは、日本という国が「会社には責任を取らせない」という一種の宗教に囚(とら)われているからに違いない。

 「株式会社とは何か」を一貫して追究してきた会社論研究者・奥村宏氏は、本書で珍しくみずからの思想遍歴にも触れつつ、これまでの業績を丹念に解題している。そこで結論づけられているのが、 戦前の「国家主義」に代えて日本人が信奉するようになった「会社本位主義」においては、「不祥事には責任を取らない」のが常態になるということだ。 原発再稼働が粛々と進んだ真の背景が垣間見えたかのようで、背筋が寒くなる。

 株式会社研究においては、株式会社の始まりは取締役および株主が無限責任制から有限責任制に移行した時点とされている。有限責任だと、会社が債務不履行となって倒産しても上限で出資した分、つまり株価がゼロになるまでが株主の責任になる。対照的に合名・合資会社のように無限責任だと債務まで責任を負わなければならないから、株主は株価や配当だけではなく会社関係者のすべての行動に注意しなければならなくなる。しかし有限責任化がきっかけとなって株主は出資しやすくなり会社は巨額の資本を集められるようになった。

 もちろん有限責任制には18〜19世紀の先進国イギリスでも賛否両論が渦巻いて、A・スミスは株主が配当にしか関心を持たなくなると警告した。肯定したのはJ・S・ミルで、彼は債権者に対し、株主が払い込んだ資本金を担保と考え、それに見合った資産を差し押さえよ(資本充実の原則)、それとともに資産状態を誰にも判(わか)るように公開せよ(財務内容のディスクロージャー)と説いた。

 とすると、 自己資本比率が低かったり過剰に債務がある(オーバー・ボロウイング)ことを特徴とした戦後日本の株式会社システムは、ミルが辛うじて支持した有限責任制の必要条件すら満たしていなかった。そのうえ日本の刑法には、「法人には犯罪能力がない」という論調がある。原発事故が会社の犯罪とはみなされないのも当然だ。

 奥村氏は「新聞経済学者」を自称する。新聞や雑誌記事を読んで研究を進めるやり方で、マルクスと同じだという。学界では「ジャーナリズム」は侮蔑語だが、新聞記者時代の同僚・司馬遼太郎氏を思わせるリアリティには比類がない。

 ごく私的な感想をひとつ。評者の祖父は製鉄会社を営んでいたが、拡大路線が祟(たた)って系列である川崎製鉄に吸収された。現在の川重兵庫工場である。私はなぜ祖父が憑(つ)かれたように拡大主義を取ったのか不思議だったが、謎が解けた。そもそも祖父に製鉄を勧めたのは尊敬する囲碁友達の西山弥太郎だった。本書で西山は資本金5億円の川鉄で163億円を借りて巨大な千葉工場を作り、大成功を収めて戦後日本のオーバー・ボロウイング路線を確定した人とある。なるほど破綻して仕方なかった会社かと、しみじみ感じた次第。


東電株主総会の怪奇 
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2011-07-31

事故原発「石棺」化へコンクリート注入を阻んだモノ 
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2012-04-03

書庫を建てる: 1万冊の本を収める狭小住宅プロジェクト

書庫を建てる: 1万冊の本を収める狭小住宅プロジェクト

  • 作者: 松原 隆一郎
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2014/02/28
  • メディア: 単行本



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『エゴ・トンネル 心の科学と「わたし」という謎』養老孟司大先生御推薦 [本・書評]

毎日新聞・書評欄(8/16掲載)で、養老大先生が、熱心に本を勧めてフツウでない。

その本は、トーマス・メッツィンガー著(岩波書店)の『エゴ・トンネル』だ。


エゴ・トンネル――心の科学と「わたし」という謎

エゴ・トンネル――心の科学と「わたし」という謎




書評結論で、養老大先生は「意識の最大の不思議は、もちろん脳が自分のことに気付いているのはなぜか、ということである。ただそれを解かなくても、先に考えなければならない問題が山積している。そうした問題を全体として見渡すために、本書は非常に優れた総説となっている。脳科学は社会のあらゆる分野に関わっており、脳科学から全体を俯瞰する書物として、本書をお勧めしたい。大学その他で教科書として使用することも可能であろう。」と記している。


「私ごと」で恐縮だが、当方最近、ハンドルネームを変えた。「閑巨堂」から「環巨洞」とした。変えたところでドウってことないのだが、ドウも『堂』という字が、人工的で気にさわるようになったのである。それで、自然におのずから作り為された印象のある『洞』に替えた。『巨』もエラそうで気にいらないのだが、左右対称にちかく、簡単な文字というと『巨』くらいしかない。漢字から離れて虚数を指す『i(本当はイタリック体)』を用いようとしたが、ソレでは「キョ」と読んでもらえそうにないので断念した。『閑』を『環』に替えたのは、以前紹介した、坂口安吾にならって、未完成のままで終るかもしれないが、巨大な円(環)を画こうとする当方の姿勢をあらわそうとしたのである。意味するところは、「閑巨堂」と同じである。カラッポということ。自分など、実は、容器にすぎず、自分などというモノがアルように思っているだけ・・、肝心なのは、カラッポの器に何を入れるか、入れようとしているかなのだと思っている・・・

「閑居堂」あらため「閑巨堂」
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2013-04-23-1

坂口安吾 百歳の異端児
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2006-08-28

ソノヨウナ自己認識があるので、養老大先生の『エゴ・トンネル』の解説は、たいへんオモシロク思えた。当方の言葉でいうなら、エゴ・トンネルのトンネルは、『洞(窟)』に相当するように思ったのである。実際そうなのかどうかワカラナイが、大先生は次のように記す。

エゴ・トンネルとは奇妙な表現である。その意味は文字通りであって、自分は要するにトンネルみたいなものだ、と著者はいう。トンネルはさまざまなものが通行するかもしれないが、実体はない。空虚である。中が空でなければ、そもそもトンネルとして使えない。存在するのはなにかというなら、壁だけ。


養老先生の自伝風著作に『運のつき』がある。当方に言わせれば、いわばトンデモ本で、「近代的自我」として西洋近代思想が輸入されて後、知識人たちを悩ませてきた呪縛を振り払うダイナマイトが仕掛けられてあった。先生自身、たいへんウットウシク思ってこられたにちがいない。

「赤毛のアン」と「ロン毛のジン」に「運のつき」
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2010-10-13


運のつき 死からはじめる逆向き人生論

運のつき 死からはじめる逆向き人生論

  • 作者: 養老 孟司
  • 出版社/メーカー: マガジンハウス
  • 発売日: 2004/03/18
  • メディア: 単行本



書評冒頭で、先生は、昨今の若者による「自分探し」について言及している。そして、「西欧近代的自我」について、次のように記す。

一読して思う。欧米人もやっと仏教的な「無我」をまともに思考するようになったなあ、と。思えば明治以降、日本の知識階級は「西欧近代的自我」に翻弄されてきた。そんなものはもう忘れたほうがいい。肝心の本家がそんなものはない、という時代なのである。

また、当該書評中、「社会脳」という言葉を先生はもちだす。

だから脳機能でも「社会脳」が重視されるようになった。じつは近年の脳科学では、ヒトの脳のデフォルト設定は社会脳だとわかっている。(略)意識は自分で考えるか、相手をするか、どちらかに偏るしかないのだが、脳の初期設定は社会脳、つまり相手をするほうなのである。こちらの面についてはマシュー・リーバマン『21世紀の脳科学』(江口泰子訳、講談社)が本書の補強として参考になると思う。

養老大先生の脳科学への造詣はふかい。「正」が何で、「補」が何かも承知している。「バカの壁」など壁シリーズの著者でもある。自我の実体は、カラッポのトンネルであり。実体がアルように見せているのは「壁」・・・

当該書籍は、大先生の認識と合致していたということか。熱意あふれ、フツウでなくなるのは当然である。


文系の壁 (PHP新書)

文系の壁 (PHP新書)

  • 作者: 養老 孟司
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2015/06/16
  • メディア: 新書



「身体」を忘れた日本人 JAPANESE, AND THE LOSS OF PHYSICAL SENSES

「身体」を忘れた日本人 JAPANESE, AND THE LOSS OF PHYSICAL SENSES

  • 作者: 養老孟司
  • 出版社/メーカー: 山と渓谷社
  • 発売日: 2015/08/21
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



(「つづく」部分に、書評全文引用)

つづく


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ドナルド・キーン先生、日本のこと、他人事でない [本・書評]

毎日新聞(8/14)に、ドナルド・キーン先生の談話が出ている。

記事は「憲法9条は世界の宝」と題されている。

憲法については、テーマを見れば一目瞭然であるので、引用しない。憲法とは関係のないところを引用する。先生は、「被災地」について、次のように語った。

最近、国民が被災地のことを忘れてしまったかのような気がしてなりません。今なお多くの人が仮設住宅に住み、原発の風評被害に苦しんでいます。その一方で東京ではオリンピックに向けて膨大な予算が使われようとしている。そんなお金があるなら被災地を優先すべきでしょう。熱しやすく冷めやすい日本人の悪い習慣が出ているような気がします。

そして、さらに続けて・・

まもなく日本に永住して4年。以前はお客さんでしたが、今は自分の国のことですから、遠慮はしません。東北を忘れずに、と言いたいです。

先生は「お客さん」でも「ガイジン」でもなく、日本に住む日本国籍をもつ日本人として「自分の国」のことで遠慮しないと言う。

先生のお名前の漢字表記は、鬼 怒鳴門である。

本当に怒ったら、先生はこわい。呶鳴ると、耳がキーンと鳴るハズ。


以下は、日本の古典文学について語った部分。

私は戦後、日米を往復しながら過ごしてきました。今では世界中で日本文学が読まれる時代になりましたが、日本人が古典や文楽、能といった伝統芸能に魅力を感じなくなってきているのが残念です。特に国文学を専攻する学生がほとんどいない。このままでは日本人が古典を読めなくなってしまう。入試対策で文法ばかりを教えるからです。

***********

暑い夏にはオークション(日本古典文学大系)
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2012-08-22

今日は「古典の日」。『南総里見八犬伝』の2度目を読みつつ 
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2013-11-01-1

山口謡司と杉本秀太郎
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2015-08-11


ドナルド・キーン自伝 (中公文庫)

ドナルド・キーン自伝 (中公文庫)




ドナルド・キーン わたしの日本語修行

ドナルド・キーン わたしの日本語修行

  • 作者: ドナルド キーン
  • 出版社/メーカー: 白水社
  • 発売日: 2014/09/18
  • メディア: 単行本



二つの母国に生きて (朝日文庫)

二つの母国に生きて (朝日文庫)

  • 作者: ドナルド・キーン
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2015/09/07
  • メディア: 文庫



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南方熊楠のなりたかったもの [本・書評]

新刊案内を見ていたら、「ライプニッツ著作集(第2期1 )」とある。ニュートンと微積分開発(?)であらそった天才ライプニッツの書簡集のようだ。

「ライプニッツ著作集」で、検索したら、正剛さんのサイトにつながった。正剛さん、文系一本ヤリかというとそんなことはないらしく、おまけに、文系人間でも食指の動く文章をつづっている。

その最後に、熊楠の一文が紹介されてある。「一八九四年九月二二日 土 雨。ライプニッツの如くなるべし。禁茶禁烟、大勉学す」。

熊楠27歳。青森の生んだ鬼才の言葉を借りるなら「わだばライプニッツに・・」という決意表明といったところか・・・。


松岡正剛の千夜千冊
ライプニッツ著作集|全10巻
http://1000ya.isis.ne.jp/0994.html

ライプニッツのてびき
十川治江にインタビュー
http://www.kousakusha.co.jp/ISSUE/leibniz.html


ライプニッツ著作集 第II期 第1巻 哲学書簡

ライプニッツ著作集 第II期 第1巻 哲学書簡




棟方志功―わだばゴッホになる (人間の記録 (13))

棟方志功―わだばゴッホになる (人間の記録 (13))

  • 作者: 棟方 志功
  • 出版社/メーカー: 日本図書センター
  • 発売日: 1997/02/25
  • メディア: 単行本



南方熊楠―森羅万象に挑んだ巨人 (別冊太陽 日本のこころ 192)

南方熊楠―森羅万象に挑んだ巨人 (別冊太陽 日本のこころ 192)

  • 作者: 中瀬 喜陽
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2012/01/19
  • メディア: 大型本



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沖縄を見れば日本がわかる(毎日新聞書評欄 今週の本棚・“この3冊”から) [本・書評]

毎日新聞の書評欄 今週の本棚・“この3冊”に

坂手洋二氏が、「沖縄と日米地位協定」のテーマのもと3冊を選んでいる。


以下が、その3冊。

皆さま、いかがご覧なるか?





改憲と国防 混迷する安全保障のゆくえ

改憲と国防 混迷する安全保障のゆくえ

  • 作者: 柳澤協二
  • 出版社/メーカー: 旬報社
  • 発売日: 2013/06/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



国防政策が生んだ沖縄基地マフィア

国防政策が生んだ沖縄基地マフィア

  • 作者: 平井 康嗣
  • 出版社/メーカー: 七つ森書館
  • 発売日: 2015/05/27
  • メディア: 単行本



以下、毎日新聞 2015年06月21日 
東京朝刊から
坂手氏の論評、「沖縄と日米地位協定」全文。

**************

『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』は、「日米地位協定」こそが日米両国の「属国・宗主国関係」を保証し、それが外交上の圧力から生まれたものではなく、文書にもとづく法的なとり決めであることを検証している。「アメリカ依存の秘密外交」「日本の法令適用から除外されるアメリカ」は「自明」のことだった。

 昨今、政府は憲法に違反する法律を制定し、それをごり押しすることができると信じているようだ。それは、例えば「非核三原則」を持っているはずの日本が、核を保持した米軍の出入りを自由に許してきたような矛盾した営為を自らも堂々と実行することで、「アメリカに満足してもらえる方策」を差し出す、「日米同盟」維持のためのカードとして使われている。

 ここには通常の国家のような「ナショナリズム」は存在しない。外交能力はなく、意思決定をアメリカに委ねている。「戦後レジームからの脱却」を謳(うた)う総理大臣は、「平和主義」のみを捨て去り、「対米従属」は不問としている。

 『改憲と国防 混迷する安全保障のゆくえ』には「日本のアイデンティティは、『米国の同盟国です』だけ」という衝撃的な発言が出てくる。

 アメリカから見れば、「戦争のできる普通の国」でない日本は、「安保」に「ただ乗り」している。リベラル派のアメリカ人でさえ、日本に対して「不公平」の意識を持っているのが実情だ。こうした感覚をよく知るのは、前泊博盛、屋良朝博両氏のような、米軍基地と対峙(たいじ)してきた沖縄のジャーナリストたちである。

 だが、在日米軍基地の脅威にさらされているのは、沖縄だけでなく、日本全土である。アメリカが日米安保の憲法に対する優位性を保つことで実現したのは、日本全土を米軍の「潜在的基地」とすることだった。首都圏を含む重要地区で外国の軍隊に自由な駐留を許しておいて、「普通の国」と言えるのかどうか。

 「普天間基地の固定化解消」という紋切り型を繰り返す政府は、沖縄の「地位的優位性」も、海兵隊の「抑止力」も、その論理の破綻を認めようとしない。むしろ米軍の方が「本土移転」に柔軟であったことは事実だった。

 『国防政策が生んだ沖縄基地マフィア』は、「辺野古移設問題」を「地域問題」として、あえて矮小(わいしょう)化して見せている。「秘密は何もない」「沖縄の特殊事情は全て説明できる」という展開に、独自の意義がある。

************

坂手氏のことを、当方、実は知らないのだが、たぶんは、「燐光群」の主宰者で、以下のブログの主であろうと思われる。

燐光群・坂手洋二について
http://rinkogun.com/About.html

Blog of SAKATE
http://blog.goo.ne.jp/sakate2008

************
以下、当該ブログ過去記事

沖縄〈座間味島で欲ボケギャルに遭遇〉
『我、拗ね者として生涯を閉ず』本田靖春著から
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2012-04-09


mina特別編集 2015-2016 沖縄を旅する 取り外して使えるMAP付き (主婦の友生活シリーズ)

mina特別編集 2015-2016 沖縄を旅する 取り外して使えるMAP付き (主婦の友生活シリーズ)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 主婦の友社
  • 発売日: 2015/06/04
  • メディア: ムック



我、拗ね者として生涯を閉ず

我、拗ね者として生涯を閉ず

  • 作者: 本田 靖春
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2005/02/22
  • メディア: 単行本



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藤原鎌足のこと(原 道生著「近松浄瑠璃の作劇法」から) [本・書評]

しばらく前に、春日大社の例祭「春日祭」のことを記した。

本日(3・13)は、奈良の「春日祭」
(春日大社-中臣鎌足-常陸国鹿島-武甕槌命・強制連行)
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2015-03-13

タマタマめくった日めくりカレンダーに、その記述があったので、春日祭とそれにまつわる藤原鎌足に言及したにすぎないのだが、その後、つい最近になって、これもタマタマ図書館で借りた本に、やはり鎌足について書かれているので、不思議をおぼえた。しかも、2冊である。こういうのは、なにかの「めぐり合わせ」と考えた方がいいのかもしれない。

「めぐり合わせ」の不思議
(老松克博著『サトル・ボディのユング心理学 』から)
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2007-04-26

昨日の更新で言及した原 道生著「近松浄瑠璃の作劇法」に、鎌足の死に際して天智天皇が授け、史上、鎌足だけが授かった冠位:大織冠(だいしょくかん、だいしきかん)が、『大職冠』という表記で取り上げられている。『大職冠物』とされる浄瑠璃・歌舞伎の元となっている古伝承「玉取り譚」について、下記のウェブ・ページは良い紹介となっている。(「近松浄瑠璃の作劇法」の表紙は、下記サイトに紹介されている『志度寺縁起絵図の海女の玉取りの図』である)。

海女の玉取り伝説(志度町)
21世紀へ残したい香川-四国
http://www.shikoku-np.co.jp/feature/nokoshitai/densetsu/1/

上記ページに示されている「玉取り伝説」では、鎌足ではなく、その子の不比等となっているが、浄瑠璃・歌舞伎の『大職冠』物では鎌足を主人公として採用している。

“近松の作品『大職冠』”の、それ以前の「大職冠物」とのきわだった相違について、
『近松浄瑠璃の作劇法』原 道生著(八木書店古書出版部発行)には、次のように記されている。
(以下、本来、段落一つのところを、分割して引用)

以上のように見て来れば、作中、この宝玉をめぐって相対している日唐両国の為政者たちにとって、その主要な関心の比重は、もはや実際に玉を入手することや玉の有無そのものを云々するといったことよりも、現実にはあるのかないのかわからない面向不背の玉なる存在を、いかにして世間の人々に“あると見せかける”ことが出来るかという事柄の上にすっかり移行してしまっていることが了解されるに相違ない。 

そしてそのことが、従来の大職冠物に見られる玉の扱いとは明らかに異質のものであることはいう迄もないだろう。即ち、先行諸作の宝玉は、龍宮対鎌足という対立関係の中にあって、まず、龍宮に於いても免れ難い三熱の苦を除くという威力の故に龍王の奪うところとなり、他方、鎌足は、その玉を人間界に取り戻すべくさまざまに思案を廻らすという設定のものとされていた。従って、そこでの玉は、まさに実体を具えたものであり、その玉自体を手中に収めることによって彼の為政者としての正統性が初めて十全な保証を得ることになるという、いわば実質的意味を伴ったものになっていたと解することが出来るだろう。 

しかるに本作の場合には、右にも述べた通り、玉そのものの持つ意味はむしろ希薄化して二義的なものとなり、代って、それを“あると人々に信じ込ませる”政治技術、ひいては為政者に要求される叡智といったものが中心的な問題として大きく取り上げられるに至っているのである。 

こうして、古伝承以来、玉取り譚の眼目を形成していた玉の存在を全く虚構のものへと改変した結果、そこに、天下の秩序を保つべき統治者としての正統性の根拠をもっぱら現実的な人身収攬術という機能的側面に見出そうとする極めて特異な視点からの政治劇が展開させられることとなり、更に加えて、鎌足という冷徹な理智的支配者の甚だ個性的な形象化も果たされることとなったという点にこそ、本作を大職冠物の系譜の中で最も際立たせている特性が認められるといえるだろう。p339-40

以下は、上記引用につづく部分。日本と大唐両国の繋りを深めようとする鎌足とそれを阻もうとする曽我入鹿。大唐からの使者として日本に宝「玉」をもたらそうとやって来た万古将軍について触れられている。

(ほんとうは、近松「大職冠」の作劇の魅力を論じている部分全体を引用したいところなのだが、なにしろ長いので、関心ある方は、直接著作をご覧いただきたい。)

ところで、これら日唐両国は、それぞれに自国の体面を重んじ、互いに相手の「嘲り」を買うことを極度に恐れはしているが、かといって、両者の間には、それ以上に不和の兆候が萌しているとの設定がなされているというわけではない。例えば、問題の玉取りにしたところで、仮に双方のいずれかがその正しい解決に失敗したとしても、衆生の惑いや国家の恥辱などといったいわば一般的な不幸には陥りこそすれ、両国の間柄に関する限りでは、特にそのことが原因で改めて深刻な対立が生じて来るというようなものとはされていないといってよいだろう。

しかるに、そのような、やがてはより一層緊密な親和へと至るべき君子国同士の温雅な角遂と並んで、更に本作には、朝家の忠臣鎌足と帝位簒奪を企む逆臣入鹿という日本国内に於ける対立関係が、作品展開のもう一つの軸をなすものとして構えられている。そして、この後者の激しい正邪の敵対関係、いい換えれば、大職冠物に伝統的な入鹿誅罰のプロットが、本作全体を貫く基本的な葛藤を形成するものとなっているのである。

本作の入鹿は、自ら天子の位に即くことを望み、その暴戻の振舞いによって宮廷の諸卿をしょう伏せしめているという、上代以来のイメージに沿って造型されている。そうした彼にとっての最大の障害となる存在が、忠節の臣鎌足であることはいう迄もないだろう。とりわけ、そこでの入鹿は、政敵鎌足の威勢が、大唐との繋りを深めることによって絶対的なものとなってしまうという事態を何よりも恐れているのである。そのため、彼はまず、藤照姫の大唐への輿入れを妨げるべく、家来に命じて街頭で彼女を略奪する。

尤も、その女は、予めそのことを察知していた鎌足が前もって用意しておいた替え玉であることが露見するのだが、入鹿は、わざと騙された顔のままで、それとは別に、孝徳帝を脅迫し、帝に累の及ぶことを憚る鎌足が自ら官を辞して都を去るように仕向けることに成功するのである。そこでは、作者が、右の如き入鹿側からなされる縁談への邪魔立てを、こうした事例によく見受けられるような横恋慕といった情緒的要因の絡んだものとすることなく、もっぱらドライな政治的手段の一つという形に仕組んでいるという点が、逆にその裏をかこうとして囮に贋の姫を用いた鎌足の謀計という設定とも併せて、いかにも本作らしい特徴を示しているものとして注目されるに相違ない。

一方、それに対して、「逆臣入鹿を亡ぼし君を安んじ民を恵み」ということを自己の使命に課している鎌足は、逆に、少しでも早く姫の婚儀を成立させ、大唐と繋りを確たるものとしておかなければならなかった。そして、そのことの実現のためには、何にも増して、懸案の玉の問題の根本的な解決が必須の要件となって来るのである。

従って、入鹿によって宮中を追われ、更に又、一旦は成就するかに見えた贋藤照姫の計略をも見抜かれてしまっている彼にとって、折しも伝えられて来た、例の万古将軍が志度の浦で玉を海底に奪われたという風聞は、唯でさえ苦しいその立場を、より深刻な窮地へと追い詰めようとするものに他ならない。もし仮に、この時点での鎌足が、万古によって投げ返されて来た玉の謎を解くことにしくじれば、彼が庶幾して止まない大唐との間に理想的な関係を取り結ぶという事態は以後永久に不可能なものとなり、その結果、入鹿の天下簒奪を阻む力は完全に失われてしまうということにならざるを得ないだろう。

即ち、そこでは、彼がこの危機的局面を打開するために取ることの出来る唯一つの方策は、前述したような、玉を“あると見せかけて”人々の信を保ち、「唐土日本隔てなく御代万歳」という状況を現出させること、いい換えれば、本作の眼目たる“玉を取らない玉取り”を何とかして成功させるということ以外にはあり得ないものとされているのである。

このように見て来れば、この「玉取り」という要因が、本作全体の劇的展開の中にあって、いかに重要な役割を果すものとしての位置づけを与えられているかということが如実に了解されて来るのではなかろうか。しかも、そこには、その頃前記の宝玉紛失の噂を知った入鹿が、これを機会に鎌足と大唐との疎隔を決定づけようと謀り、しきりに万古への接触を試み始めたという設定も構えられている。そのため、右の「玉取り」は、入鹿が万古と気脈を通じ合うより前に実行されなければならないという厳しい時間的制約を課せられることとなり、一層の切迫感を伴うものとなり得ているということが出来るだろう。p340-42

こうして引用しながらも、近松の場面設定の妙、自作に「新機軸」を取り込もうとする強い意志が伝わってくる。しかも、ドライな政治性をもち、今日的課題を照射してさえいるように当方には感じられる。

ほんとうは、鎌足のことを取り上げているもうひとつの著作から引用するつもりだったが、思いがけないことになってしまった。これも〈「めぐり合わせ」の不思議〉か・・・。

『近松浄瑠璃の作劇法』原 道生著(八木書店古書出版部発行)
http://kankyodou.blog.so-net.ne.jp/2015-05-18                                    

近松浄瑠璃の作劇法

近松浄瑠璃の作劇法

  • 作者: 原 道生
  • 出版社/メーカー: 八木書店古書出版部
  • 発売日: 2013/11/25
  • メディア: 単行本



大織冠・内大臣 藤原鎌足

大織冠・内大臣 藤原鎌足

  • 作者: 藤原 春雄
  • 出版社/メーカー: ジャパンインターナショナル総合研究所
  • 発売日: 2003/07
  • メディア: 大型本



大職冠

大職冠

  • 出版社/メーカー: Kindleアーカイブ
  • メディア: Kindle版



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