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『静物画の秘密展』を見て [アート・美術関連]

先日、国立新美術館に出向いてきた。

『静物画の秘密展』を見るためだ。


当方、好きな「静物画」はあるものの、静物画は、ジャンルとしてあまり好きではない。あまりおもしろいと思わない。

それにもかかわらず、わざわざ足を運んだのは、静物画をあらわすStill-Life Paintingという言葉に驚いたからだ。

日本語で表記される「物」と“life”との関係が気になったのだ。

ふつう静物画の対象となるのは、物であって、いのちとはあまり関係ないではないか、それにもかかわらず“life”とはなにごとか・・と思ったのである。

それで、モノといのちの関係を見究めたいような気になったのだ。


しかし、当日、図録の解説を見て、ナンダ・・と思った。

Still-Life Paintingの“life”は、いのちではなく「描かれたものが“生き生きとして”本物に見える」ことを指すという説明が示されていた。

以下のような解説も出ていた。

「本物と見紛うばかりの描写によるイリュージョンが精緻であればあるほど仮象と実在という対立概念から道徳がより強く心に迫ってくる。あらゆる静物画は必然的にヴァニタスであるのだ」Gombrich 1978


確かに、実際、そのとおり「“生き生きとして”本物に見え」、ソコに歴然として存在するモノであるかのように騙されかねない絵も“いくつか”あった。

きっとそれでも、美術館の人工的な照明のもとではなく、絵が実際に描かれ架けられていた当時の薄暗い蝋燭に照らし出された家屋のなかでであったなら、まさに、永遠の「実在」として迫ってくるであろうと思われるような「仮象」(絵画)ばかりであったにちがいないと思われもした。

オランダあたりで盛んに描かれたというが、みずみずしい果物は、北方の地ではまさにアコガレであり、銀の大皿に盛られた檸檬はざっくりと皮をそがれ、露出した果肉は透けて見えるようであり、それは、静物画家の力量を示すものであったというが、みごとなものであった。


ベラスケスもデューラーも展示されていたが、一番印象に残ったのは、アントニオ・デ・ペレダの『ヴァニタス』。

多様な金属、骨、羽、皮革、石などの質感の違いがよく表現されている。

しかし、印象に残った最大の理由は、絵画の技法・表現やオリジナリティーに圧倒されたというのでない。

『ヴァニタス』(虚栄)という標題とそこに描かれた小さなカメオ。

そこには、ハプスブルク家の覇権絶頂期の王カール5世の肖像が彫り込まれている。

ペレダによって描かれたのは、その1世紀ほど後のハプスブルク家の覇権に翳りのみえだした頃であるというが、たぶん飾られていたのは、そのハプスブルク家においてであろう。

絵画のなかで、カメオは、羽根のある天使とおぼしき人物の手に握られ、天使とおぼしき人物は地球儀を指差してもいる。

天使をとおして、権威の相対化がおこなわれている。つまり、創造者として永遠の支配権をもつ神とどれほど栄華のうちにあるとしても限りのある人間の支配権が比較され、人間の権威の虚しさが示されている。

実際のところ、この絵をハプスブルク家の人間はどのように見たのだろうと思う。

自分たちの支配権を存続させるために営為努力することを誓ったのだろうか。それとも、宗教的な思いをもち、神のみまえで慎みを保とうと願ったのだろうか。

いずれにしろ・・・

シェイクスピア劇に出る、狂言回しの道化が王権を揶揄したりするのが許され、王権が、相対化されるのと同様、彼ら、ヨーロッパの精神には、しっかり、人間の支配権を神の支配権との関係で相対化する意識があるのだなと思った次第。


これもひとえに以下のような聖書の教えに根ざすものであるように思った。

「死すべき人間についていえば、彼の日は青草のようであり、その咲き出る様子は野の花のようだ。

ただの風がその上を過ぎ行けば、もはやそれはないからである。それがあった場所は、もうそれに気づきもしない。

・・・

エホバ自ら天にその王座を堅く立てられた。その王権はすべてのものの上に支配を行なった。

エホバをほめたたえよ。その使いたちよ。強大な力を持ち、神の言葉の声に聴き従うことによって、そのみ言葉を行なう者たちよ。」

詩篇103篇15,16,19,20節、新世界訳聖書
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